世界の果てで紡ぐ詩

真夜中の来訪者

 静かな夜。
 規則正しい寝息の支配する室内で、どこから湧いたのか黒い影が蠢いた。
 しかし夢の世界を彷徨っているこの部屋の主は、ベッドに近づいてくる不穏な影には気づいていない。
 影はすやすや眠る部屋の主を見下ろすと、不意にその身体を覆い尽くすような形で被さった。

「――――ぅ……ん」

 未だ覚醒しきっていない声は、この部屋の主であるユイリのもの。
 眠りを邪魔された不機嫌さからか、無意識に犬を追い払うような仕草をする。
 そしてより心地よい場所を目指して、布団の中に潜り込んでしまった。
 カーテンから洩れる月明かりに照らされ人の形を取った影は、ユイリが見たら後ずさりして逃亡を図るであろう人の悪い笑みを口の端に浮かべている。
 そろりと布団を剥がすと、ユイリの耳元に口を近づけて甘く囁いた。

「ユイリ。いいかげんに起きないと――襲うよ?」

 ついでに、無防備にさらされていた耳たぶを軽く食(は)んでみる。
 すると、面白い反応があった。

「――――――?!!!」

 声にならない悲鳴をあげたユイリは、文字通り飛び起きた。
 全身鳥肌でパニック寸前、挙句の果てに寝惚けているという最悪の状態。
 一人悶絶しているユイリの横で、サイドテーブルに置かれた燭台に灯が点る。
 ユイリは耳たぶを押さえたまま、涙目で不埒な侵入者を睨みつけた。

「なななななななんであなたがここにいるんですか! っていうか、今私の耳食べましたよね?!」

 あの生温くて気持ちの悪い感触を思い出すと、更に肌が粟立つ。
 ユイリは警戒心も露わに、侵入者――つまりクラウスから離れようとミノ虫のように這いつくばった。
 そんなユイリを嘲笑っているのか、風を含んだカーテンがゆらゆら揺らめいている。
 雲一つない夜空に浮かんだ月明かりの下で、クラウスの顔に悪びれない笑みが浮かんだ。

「ちょうどヒマをしていてね。久しぶりにユイリをからか……君の顔が見たいと思ったんだ」

 耳たぶにかじりついたことにはあえて触れずに、クラウスはしおらしくそう言った。
 ユイリは顔いっぱいに“怪しい”という言葉を浮かべて、不審そうに目を細めた。

「今、からかいにって言おうとしませんでしたか?」
「さぁ、どうだろうね」

 クラウスは肩をすくめた。
 そしてユイリの顔から全身へと視線を移して、一言。

「それよりも……ずいぶんと寝相が悪いみたいだね、ユイリ」
「へ?」
「服。肌蹴ているけど、君は気にならないのかな? まぁ、特に気にするような体でもないし、僕は例えユイリが裸でいようと構わないけど」
「ッ!!」
(サ、サイアクだ)

 失礼なクラウスの物言いはこの際置いておいて、ユイリは太もも近くまで捲れていた裾を戻し、ボタンが外れて大きく開いた胸元を合わせて、こほんと一つ咳払いをした。
 こんなシチュエーション、前にもあったなと思いながら。

「そ、それで。本当は何しに来たんですか?」

 尚もはぐらかすつもりでいるらしいクラウスに、ユイリは嫌味を多大に織り交ぜて言を継いだ。

「こんな真夜中に、勝手に人の部屋に忍び込んで、不届きにも寝込みを襲うくらい、大っ切な用事なんですよね?」
「おや。襲ってほしかったのかい? それならそうと早く言ってくれれば良かったのに」

 図々しくもベッドに上がり込んだクラウスが、すかさずユイリの視線を追って退路を封じる。
 ユイリはなすすべもなく、ヘッドボードに手をついたクラウスの腕に囲い込まれてしまった。

(こ、これはもしや……貞操の危機ってやつですか?!)

 冷や汗だらだらなユイリは、虚しくも抵抗を試みてみた。

「い、いいかげんにして下さい。そしてどけて下さい、邪魔です! ――って、許可もなく何触ってんですか?!」

 クラウスの手に顎をすくわれたユイリは、これはマズイとばかりに引きつって裏返った声をあげた。

「いやいやいやいや、顔近いし! お遊びにしても許容範囲はとっくに超えているから、やめて下さいってば! いい加減にしないと、大声で叫んじゃいますからね?! ――だぁーれーかー! 助けてーっ!! ここに変質しゃ……もごっ」

 大声で助けを呼ぼうとしたら、片手で口をふさがれてしまった。

「寝起きとは思えないくらい元気なのは結構だが、少し静かにしていてもらいたいね。君の小間使いとやらが起きだしてきては厄介だ」

 しかしユイリは聞いていなかった。
 あまりの息苦しさに顔を真っ赤にして、口をふさいでいる手をどかそうともがいているのにクラウスは全く気づいていないのか拘束を緩めてくれない。
 ようやく解放された時には、息も絶え絶えになっていた。

「――こ、殺す気ですか?!」

 危うく三途の川を渡りかけたユイリは、クラウスに猛然と抗議した。
 当の本人は涼しげな顔、どこ吹く風といった感じでとんでもないことを宣(のたま)った。

「まさか。まだ死んでもらっては困る」

(……イヤな言い方)

 もちろんクラウスは、ユイリがそう感じることを知っていてあえて言ったのだろう。
 ここでクラウスの期待通りの反応を返すのは癪だったので、ユイリはクラウスの言葉を聞き流すことにした。

「――用件があるなら、さっさと言ってさっさといなくなって下さい。私は眠いんです。寝不足は美容の大敵なんですからね。お肌に張りがなくなったら、真っ先に恨んでやるから……」

 クラウスは、憐みを込めた目でユイリを見つめた。
 その視線の意味をほぼ正確に理解してしまったユイリは、腹立たしさと惨めさを器用に織り交ぜた表情で小さく呟いた。

「イヤな奴」
「どういたしまして」

 バカにした笑みを浮かべたクラウスは、次の瞬間には笑みを消して真面目な顔を作った。

「まぁ、特に用事がないことは認めよう。ただ……君に会いたくなっただけだと、そう言ったら信じてもらえるかな?」
「――」

 ユイリは無言のジト目でそれに答え、クラウスは苦笑いをした。

「分かった分かった、そう睨まないでくれ。君に会いたくなったというのは本当だとしても、本題はそれじゃない。少し、忠告を与えてあげようと思ってね」
「忠告、ですか?」
「ああ。――水面下での動きが活発化するに伴い、幾つかの思惑が夏季祭を、いや、聖劇を呑みこもうとしている。気をつけるといい」
「――それは、あなたからという意味ですか?」

 疑惑の目を向けると、クラウスは一瞬驚いた顔をして、次いで天を仰いだ。

「まいったな。どうしてこうも嫌われてしまったんだろう」

 ユイリは、ベッドに腰掛けたままのクラウスを嫌そうに見やって、鼻の頭にしわを寄せた。

「自分の胸に手を当てて、よぉっく考えれば分かることだと思いますけど」

 クラウスは、ユイリが嫌がることを承知で上体を近づけると、とっさに逃げようとしたユイリを捕まえて「ともかく」と耳元で囁いた。

「僕が言いたいのはそれだけだよ」

 反射的に振り払おうとしたユイリの手は、あっさりとかわされてしまう。
 言いたいことを言ったクラウスは、毛を逆立てて怒るユイリを放置して立ち上がった。
 そして去り際に一言、ユイリに背を向けたままこう告げた。

「元の世界へ還る前に死にたくはないだろう、ユイリ?」

 不吉な言葉に茫然としたユイリが我に返ったのは、クラウスの気配が部屋から消え失せてしばらくしてからだった。
 ユイリはもそもそと冷たくなった布団の中に這い戻り、羊の数を数え始めた。

(今夜のことは夢だと思って、綺麗さっぱり忘れよう)

 そう自己暗示をかけて。

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