世界の果てで紡ぐ詩
11−01.
レイが特に何をするでもなく本のページを捲っていると、微かに空気が動いてこの部屋の主が戻ってきたことを知らせた。
レイは、読んでいた本を置いて立ち上がった。
「こんな遅くに、一体どこへ?」
本当は、聞かずとも答えは分かっている。
問われたクラウスは、レイの予想通りの答えを返した。
「ユイリのところに決まっているだろう」
途端にレイの顔に浮かんだ苦い表情は軽く受け流して、クラウスは向かい側のソファに腰を下ろした。
「言ってなかったかい?」
「……初耳です」
「それは悪かったね。見たところ、ずいぶん待っていたようだが」
悪びれない表情で、クラウスが首を傾げる。
レイは諦め交じりに嘆息すると、クラウスに倣って再びソファに腰を下ろした。
もう深夜も回っていることや、明日の朝早いことなど微塵も感じさせないその動作は、流れるような一連の動きを持っている。
クラウスは、面白くなさそうな顔を隠そうともせず言った。
「と言っても、それほど疲れているわけではなさそうだね」
「まさか」
クラウスの当てこすりに苦笑を浮かべて、レイは肩をすくめた。
「あなたの余計な動きのツケを、一体誰が支払っていると思っているんですか」
「さぁ、なんのことかな」
「……偽者に聖神官の名を騙らせた挙句、聖騎士が保護していた客人の部屋に忍びこんだということは報告を受けていますよ」
クラウスは、愉快そうな笑い声をあげた。
「ジェイ・コートランドだね?」
「それに、神殿内に存在するものを勝手に撤去されては困ります」
「もちろんだとも。僕もそんなことは望んでいないから、安心するといい」
もしユイリがいれば胡散臭いと形容したであろう笑みを浮かべて、クラウスは平然と足を組んだ。
「もっとも、簡単に破れるような封印の紋様術の方は、施すだけ無駄なような気もするね」
「……あなたのように、バルコニーから侵入する輩はそうそういませんから」
ため息混じりに言って、レイはクラウスの顔を探るように見つめた。
「では、実際に木をよじ登っ――つたってユイリの部屋に侵入したわけではないと?」
クラウスは、怪訝そうに眉根を寄せた。
「どうしてこの僕が、そんな無駄なことをしないといけないんだい?」
クラウスがジェイにそう匂わせたと言うのに、まるでレイがそう言ったかのように不機嫌さを滲ませている。
何だかもうどうでも良くなってきたレイは、「今の話は気にしないでください」と話を打ち切った。
ことクラウスに関しては、すでに諦観の境地に達してしまったような気がする。
それは付き合いが長いせいでもあるし、彼に対して尽くしきれない恩義を感じているせいでもあった。
(こちらの都合なんてお構いなしに行動するのだけは、さすがに困りものですけどね)
深いため息を吐きそうになったが、そうするとクラウスの機嫌が急降下しそうなのでなんとか押しとどめる。
かわりにレイは、ふと疑問に思ったことを口にした。
「そういえば、彼女の部屋へは一体どういった用件で行かれたんですか?」
「ん? ああ、伝承について教えてあげようと思ってね」
クラウスの瞳に、嘲笑にも似た光が浮かんだ。
「それと、彼女に印を付けるために」
「――印、ですか」
「そう。彼女が僕のものであることを示す印と、ちょっとした封印をね」
「封印を? それは一体……」
「彼女がもし聖女の血筋に連なる者だった場合、僕以外の男が彼女に触れることは我慢ならないから」
眉をひそめるレイに、クラウスは薄く笑った。
「迷い人たる彼女には、精霊の気配が纏わりついているだろう? 迷い人が現れたことに関する報告は君が止めてくれているからいいとしても、いつ勘付かれるか分からないからね。気配に敏い者の目に触れにくいように、少し隠させてもらった」
僕は嫉妬深いから。
異性に対する甘さなど感じさせない冷ややかな笑いを浮かべて、クラウスは言った。
レイの体が、思わずすくんだ。
クラウスという人物を知っていてなお、彼の冷酷無比な部分を垣間見ると恐ろしいと思う。
異世界から来たユイリという少女にはまだ面識はないが、彼女が聖女の血筋に連なる者でも例えそうでなかったとしても、クラウスの中で筋書きはすでに出来上がっているに違いない。
それが彼女にとって、苦痛を与えるものだとしても。
(それでも私は――)
「――クラウス様から指示をいただければ、その通りに動きましょう。私もその少女と同じ、あなたの駒の一つにすぎないのですから」
無表情に言い切るレイに、クラウスはただ低く喉にこもる笑い声をあげたのだった。
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