世界の果てで紡ぐ詩

11.

 ――驚いた。
 
 まさに寝耳に水。
 全く想像もしていなかった事実を聞かされて、考えが追いつかずに茫然自失のまま、ただクラウスを見つめることしかできなかった。

 クラウスは自分の言葉がもたらした効果を楽しむように、口元に皮肉な笑みを浮かべた。

「もっとも、こういう言い方をすると語弊があるかもしれないが」
「どういう意味ですか?」
「この世界にラクリマと呼ばれる女性は数人いるが、その全てが異世界からの“迷い人”であるという意味ではない」

 遠回しな言い方に顔をしかめたユイリにはかまわず、クラウスはのんびりとグラスにブランデーを注ぎ入れた。
 グラスの中の琥珀色の液体が落ち着くのを待って、淡々とした口調で言を継ぐ。

「伝承によると、それは数百年も昔。昼も夜もない真の暗闇が世界を覆い、精霊は気配を潜め、女神エレスティアは一度この世界を見捨てた。聖と魔の均衡が崩れ、人々の間には絶望の挽歌が満ちた暗黒の時代。世界が崩壊への道を進んでいる時にどこからともなく現れたのが、初代のラクリマだ。彼女は、異世界からの“迷い人”だったと言われている。そして、不思議な力をその歌声に秘めていた」

 歌声と聞いて、ユイリはぐっと眉間にしわを寄せた。
 あの、楽譜――。

 ユイリの表情が変わる様子を視界の隅に映しながら、クラウスはブランデーを一口含むと、味わうように喉に流し込んだ。

「彼女が歌うと死んだ大地は蘇り、草木が息吹き世界に満ちていた障気が浄化されたという。その力は生きとし生けるもの全てに及び、絶望の淵に沈んでいた人々は彼女の歌こそが女神の頑なな心を開く手段であることに気づいた。――彼女は人々の願いを聞き入れ、女神に祈った。どうか世界に光を戻してほしいと。祈りは歌となり大気に溶けて、女神の下へと届いた。しかし運命とは時に残酷なもの。女神が祈りを聞き入れるよりも先に、魔が彼女の身体を引き裂く方が早かった。彼女の身体から流れ出た血は大地に流れ河となり、風化した身体が大気に舞って最後に残った骨を浄化の炎で包み、命の灯は消えた」
「……その人は死んでしまったということですか?」
「そういうことになるだろうね。だが彼女の歌で精霊たちは力を取り戻し、女神は祈りを聞き入れて世界から魔を取り払い、光が戻ったという。こうして世界に平和が訪れ、その時歌われた”うた”は、代々ラクリマに伝えられることになった。――とここまでが、君が聞きたがっていた伝承だ。聖劇を観ればもっと分かりやすいんだろうけど、夏至祭はまだ少し先だからね」
「夏至祭?」
「一年中で、一番昼が長く夜が短い日に行われる祭りだ。他には冬至祭、降臨祭でも聖劇を演じるかな」
「なるほど」

 ユイリはもっともらしく頷いた。
 聞いたまま字の如くであれば、日本にあるそれらと何ら変わりはないのだろう。降臨祭を除いては。
 こればかりは想像するしかないが、何となく意味は分かる。

「それ以降、数年に一度、聖女の血筋に連なる者――女神の祝福を受け精霊の加護を持つラクリマを、僕たちはこう呼んでいるんだが――が生まれるようになった。そしてそれよりも稀に、異世界からラクリマの素質を持った者が迷いこむようになった。ちょうど、君のようにね。なぜかは分からないが、一説によると世界の均衡を保つために呼び寄せられるらしい。全ての迷い人がラクリマと呼ばれるわけではないけどね」

 薄っぺらな笑みを口の端にのせ、クラウスは肩をすくめた。

「伝承はあくまでも伝説の一つにすぎないから、詳しいことはすべて曖昧だ。ただ言えるのは、一度異世界から迷いこんだ者がまた元の世界へ戻ったという話は聞いたことがない」

 愉快そうに言うクラウスを呆然と見つめながら、ユイリは奈落の底に突き落とされた気分を味わっていた。
 部屋は十分暖かいはずなのに、身体が冷えきってしまっているのか感覚が薄い。
 ユイリはローブごと、身体を抱きしめた。

(もしかしたら、元の世界に帰ることはできないのかもしれない)

 常に楽観的思考の持ち主だと自負していても、いつまで経っても悪夢は覚めてくれないし、どうやら現実のようだと理解したらしたで、元の世界へ帰る方法は分からないと言う。
 さすがのユイリも、悲観的になろうというものだ。

 力なくうなだれるユイリを尻目に、クラウスはグラスの中に残ったブランデーを一気に飲み干し、まだ半分以上中身の残っているボトルを手に持ち立ち上がった。
 そのまま話は終わりだと言わんばかりに部屋を横切りキャビネットの前まで行くと、不意に振り返り欺瞞に満ちた憫笑びんしょうを浮かべユイリを見つめる。

「ああ、一つ言い忘れていたが、君に今話したのはあくまでも行為伝承であって、口頭伝承の類ではない。あるいは聖典とか」
「……どういう意味ですか?」
「そうだな、行為伝承は民衆に広く知れ渡っているもので、口頭伝承はラクリマに、聖典は中央メセリアに保管され聖神官やラクリマのみに伝えられると言えば分かるかな」
「つまり、まだ何かを、隠しているってことですね」

 ユイリはふつふつと湧きあがってくる怒りを抑えこむように、一語一語を区切って言葉を絞り出した。
 憤懣やる方がないとは、まさにこういう時に使うのだろう。

 ユイリは、クラウスを険悪な眼差しでねめつけた。

「伝承について教えてくれるんじゃなかったんですか?」
「だから教えただろう」
「でも」
「確かに聖典はある。暗黒の時代にラクリマが歌ったとされる、”世界の均衡を保つうた”も存在する。これらを紐解けば、もしかすると元の世界へ帰る方法が見つかるかもしれない。だけど考えてごらん、聖神官でもラクリマでもない者に、安易に内容を教えていいものだと思うかい?」

 子供に言い聞かせるようにクラウスは言い、持っていたボトルをキャビネットの元の位置に戻した。

 余裕しゃくしゃくのクラウスとは対照的に、ユイリは答えに詰まり情けないのを承知の上ですがるようにクラウスを見上げる。

 それを楽しそうに見つめ、クラウスはキャビネットに寄りかかったまま腕を組んだ。

「残念だけど、僕が教えられるのはここまでだ」
「だったら! せめてその聖典とかに、元の世界へ帰る方法が書いてあるかだけでも教えていただけませんか?」
「……どうだろう。僕はあまり聖典に触れたことはないから」

 嘘だ。

 反射的にそう思ってしまった自分に驚きながら、ユイリは注意深く口をつぐんだ。
 例え嘘であっても真実であっても、クラウスはやはり同じようにはぐらかすのだろう。

 これ以上は聞いても答えてくれまいと諦めていたユイリにとって意外なことに、クラウスは「だけど」と口を開いた。

「ユイリ、もし君がメセリアに訪れることがあるのなら、その時は聖典を見せてあげてもかまわない」

 その囁きは例えようもないほど甘い響きを帯びて、ユイリの中にすとんと落ちていった。
 急に空気が重くなったことに気づくこともできないまま、甘い媚薬を含んだ言葉が体中に広がっていく。
 
 ユイリはクラウスが一歩一歩近づいてくるのを、金縛りにあったように動くこともできずにじっと見つめていた。
 互いの息が触れ合うほどの位置に立つと、クラウスの両手がすっと伸ばされる。
 確かに怖いと思っているはずなのに逃げることも叶わないまま、ただクラウスの手がユイリの首元にかかるのを、恐怖に慄いた目で見つめることしかできない。
 首を絞められると思っていた手は、しかしユイリの首に触れたままだった。
 ちょうど、鋭利な刃物で傷つけられた場所を覆うように。
 不思議と痛みはなかったが、その部分が熱を持ち耳の奥で心臓が脈打っている。

 クラウスは僅かに屈むと、ユイリの首に手を触れたまま耳元で、かつてユイリが歌いこの世界に呼び寄せる原因ともなった歌と同じ響きを持つ言葉を語った。

 しかしそれが意味を為す前に、意識が闇に浸食されて薄れていく。

 後にユイリ自身の口でその言葉を紡ぐことになるなど、その時は知る由もないことだった。

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