世界の果てで紡ぐ詩
15.
ユイリは既視感に襲われて、目を見開いた。
「それって……」
「誓約の祈りよ。ラクリマが歌う、“世界の均衡を保つ詩”の一節って言った方がいいかしら」
「私、それ聞いたことがあります。でもどこでだろう……」
それは、ぼんやりと霧の中を漂っているようで思い出すことができない。
実体のないものを掴もうと足掻いているように、とても不安定で儚げなものだった。
重要な“何か”であるのは間違いないと思うのだけれど。
必死に記憶の淵を探っていると、ウェネラがやけに人間じみた仕草で手を叩いた。
「忘れるところだったわ。これはもうあんたのものだから、返しておくわね」
無造作な調子で言うと、ウェネラはすっと右手をあげて爪の長い人差し指で何か紋様のような形をなぞった。
音も気配もなく、瞬きをした次の瞬間ウェネラの目前に現れたのは、数枚の紙。
それが目にもとまらぬ速さで迫って来て、驚きと恐怖の悲鳴を上げたユイリは、とっさに頭を庇ってしゃがみこもうとする。
しかしあえなく失敗し、情けない悲鳴をあげて尻もちをついてしまった。
「バカねぇ」
という呆れた声は、ウェネラのもの。
ユイリが恐々と頭をあげると、それはちょうど拳三個分くらいの距離を空けてぷかぷかと宙に浮いていた。
返すということは、受け取れということなのだろうか。
尻もちをついたまま何とか背筋を伸ばして威厳を取り戻す努力をしながらも、ユイリの眉間には皺が寄っていく。
警戒心も露わに薄っぺらな紙を見つめると、それはあの封書の中に入っていた楽譜だった。
正体が分かったからといって安心できるはずもなく、そしてウェネラに逆らえるはずもなくしばらく逡巡した後にそっと手を伸ばす。
すると、まるで楽譜そのものに命が宿っているかのようにユイリの手の中に収まり、次の瞬間には淡い光の粒子を残して消えてしまった。
何度も瞬きを繰り返し、両手を裏にして表にして辺りを落ち着きなく見回してみても、やはり楽譜はどこにもない。
「探しても無駄よ」
ユイリの奮闘を嘲笑うべく、ウェネラが言った。
「あの楽譜はもともと、存在しないはずのものだもの」
「存在しない? でも今ここに」
「あれは文字として残すことはできないのよ。本来であれば、口頭でのみラクリマに伝えられるものだから」
「ラクリマにってことは、えーと……、”世界の均衡を保つ詩”ということでか? でもどうしてそんなものが?」
「あんたを呼び寄せるのに必要だったからよ。決まってるじゃない」
「……なるほど」
「異世界から異世界へ一人の人間を呼び寄せるのは、容易いことではないわ。それを可能にしてしまうほどの効力を持つものだと言うことを、覚えておきなさい」
異世界へ召喚する詩があるのなら、逆に元の世界へ召還する詩もあるのだろうか。
ウェネラの話を聞きながら、ふと頭の中に疑問が浮かんだ。
内容も分からないまま、溢れだす想いそのままに歌った詩と対になる詩。
それがあるのなら、もしかしたら……。
ひどい耳鳴りを覚えながらも、確信めいた思いとともに震えるような記憶が蘇ってきた。
鮮烈な音と言葉と、祈りにも似た旋律が――。
ぼんやりと邂逅していたユイリは、ウェネラの苛立たしげな声ではっと我に返った。
(今私は、何をしようとしていた?)
「やめなさい、今のあんたに歌いこなせる代物じゃないから。こちらに来る時は私が力添えしてあげたけど、今はそれがないから、圧倒的に力が足りないもの。今のあんたには無理よ」
厳しい顔つきと口調で言われ、ユイリは自分が何をしようとしていたか気づいて慄然とした。
確かに、自分を異世界へ連れてきた詩を口ずさもうとするなど、不用心以外の何物でもない。
それに例え歌ったとしても、元の世界へ帰ることはできないという予感めいたものがあった。
ウェネラに無理だと言われるまでもなく。
しかしその一方、頭の中で揺らめくメロディには、抗いがたいものがあるのも事実で。
そよぐことさえない静かな水面で銀の魚が飛び跳ねるように、その存在は常に無意識の中に付きまとうものだった。
困惑したまま口を開こうとしたユイリは、ウェネラの姿が先ほどよりも色を失い白い光の中に溶け込もうとしていることに仰天して、今までの会話を忘れるくらいの素っ頓狂な声を上げた。
「ウェ、ウェネラさん?!」
「あらぁ残念、時間のようね。話せていないこともまだ多いけど、次の時まで自分で何とかしなさいね」
「え、なんとかって! ちょっ、待って下さい! 私を一人にするんですか?!」
ウェネラが半透明な幽霊みたいになっていることよりも、こんな何もない場所に一人で置いていかれることの方がよりユイリを慌てさせているのは、当たり前のことだった。
他人のことよりもまず自分のことだ。
しかしウェネラは、そっけなかった。
「大丈夫よ、あんたのことは夢を媒体に呼び寄せただけだから、あとは目を覚ませばいいだけの話だもの」
そして、迷った末に一言付け加えた。
ユイリの首元を、思案深げに見つめながら。
「歯車はもう動き出しているわ。あんたの周りにいる人物には、特に注意を払うことね」
一人あたふたしながら意味の分からない行動を取っているユイリにその呟きが聞こえたかは疑問だが、とにかく忠告はした。
あとはこの娘が、どの道を選択するかだ。
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