世界の果てで紡ぐ詩
16.
目覚めは、お世辞にも快適とは言い難かった。
まず耳に入ってきたのは、ココがいささか乱暴にお湯の入った水差しを洗面台に置く音だった。
ユイリは文字通り飛び起きて、寝ぼけ眼のまま目を瞬かせた。
次にココは、「おはようございます」とさっぱりした笑顔でユイリに挨拶をすると、そのまま部屋を横切って行き、一気にカーテンを開けた。
殺人的な朝の光が容赦なく目に飛び込んできて、ユイリはうめき声をあげながら布団の中に避難した。
しかしココは、そんなことではへこたれない。
どたどたとユイリの避難所まで突進してくると、あっと思った瞬間には被っていた布団を引っぺがして満面の笑顔を浮かべていた。
この世界に、プライバシーという言葉はないのだろうか。
げんなりとした面持ちで考えながらも、ユイリは屠殺場へ引き立てられる家畜よろしくベッドから追い立てられて、洗面台へと向かう。
促されるまま水差しのお湯をつかって丁寧に洗顔をすませると、ココが横にきてふわふわのタオルを差し出していた。
断る理由もないので、ありがたく拝借することにする。
「ゆっくりお休みになられましたか?」
ココに聞かれて、化粧台の前に置かれたスツールに腰掛けたユイリは、鏡に映った自分の顔をしげしげと見つめた。
一応お洒落に気を遣いたい年頃なので、眉は弓型にすっきり整えてある。
今はその眉が皮肉っぽい形に上げられ、光の加減によっては暗褐色に見えるアーモンド形の瞳に浮かんだ色と相まって、ユイリの心境を吐露していた。
つまり、不機嫌。
背中の中ほどにまで届くくせのある黒髪が自由奔放に飛び跳ねているからだけではなく(それも原因の一つだけど)、夢見のせいというのが一番大きな理由なのは明らかだ。
夢の中にさえ安息の地を見出すこともできず、快眠にはほど遠い。
勉強や部活で睡眠を削ったわけでもないのに、目の下に隈ができているのは気のせいではないはずだ。
ユイリが返事をするのに適切な言葉を探していると、そんなことはおかまいなしに動き回っていたココがユイリの後ろに立って、鏡越しに目があった。
ココは、淡いブルーの布を両手いっぱいに抱えている。
誇らしげに広げられたそれの正体に気づいて、ユイリは喉を絞め上げられた鶏のような声を上げた。
「それってもしかして……私が着るんですか?」
「もちろんでございますよ。お嬢様にふさわしい衣類が揃うまでは、こちらをお使いいただくようにと申しつけられておりますもの」
「でも勝手に借りたら、このドレスの持ち主に迷惑なんじゃ」
苦しい言い訳をしてみるも、ココはあえなく首を振った。
「ご心配には及びませんわ。このドレスは、神殿付属のアデレイド女学院に通われていた方がお持ちになったものですが、学院を修了された時に置いていかれましたので。お嬢様がお召しになっても差し支えないと思います」
「だけど」
「それとも、お気に召しませんでしたか? 旅先でご不幸があり、衣類の類をお持ちになる余裕がなかったと伺っておりましたので勝手にご用意いたしましたが、考えてみればいくら貴婦人とはいえこのドレスは他の方がお召しになったもの。それをお嬢様にお渡しするなんて、なんて恐れ多いことでしょう! 浅慮でございましたわ」
(って、一体どういう設定なの?!)
大まかな話の流れは決して間違えてはいないが、詳しいことはかなり省略されている。
ユイリはうっかりぼろを出してしまう前に、賢明にもその点は聞き流すことにした。
とはいえ、すっかり打ちひしがれているココに、ドレスを着るのを躊躇ったのはただ単に着慣れていないからだと説明し、さらに他の人が着た服が嫌なら昨晩の内にそう言っていたからそんなことはないのだと太鼓判を押した揚句に、「着るのが楽しみ」とまで言ってのけた。
そんな押し問答の末、嬉々としたココの手伝いもあってようやく身に付けたその服は、淡いブルーの色合いが美しい木綿のドレスだった。
ハイネックの縁に申し訳程度のレースがあしらわれ、長い袖は手首のところがボタン留めになっている。
ココは最後の仕上げに胸元にあしらわれたリボンの形を整えると、一歩下がってユイリの全身を眺め満足げに頷いた。
「よくお似合いでございますわ、お嬢様。さて、次はおぐしを整えてしまいますね」
反論の言葉を飲み込んで、ユイリはおとなしくスツールに腰掛けたまま情けない顔をしている自分の顔を鏡越しに見つめていた。
ココはユイリの髪の毛を丁寧に解いていくと、そのうちのひと房を手に取って顔をしかめた。
「綺麗なおぐしですが、毛先がちょっと痛んでますね。……切っちゃいましょう!」
何とも嬉しそうな顔でそう言うと、ココはお仕着せのポケットからよく磨かれた鋏を取りだし、ユイリの返事を待たずにちょきちょきと毛先を勝手に切り始める。
その様子を、ユイリは悲痛な面持ちで眺めていた。
ちょきちょきちょきちょき。
何とも軽快な音とともに、波打つ黒髪が足元に落ちていく。
顔を上げられないまま降り積もっていく髪の毛に別れを告げていたユイリは、しばらくして鏡を見た途端驚きに目を見張った。
「すごい! ココさんて、何でもできるんですね」
両サイドの髪の毛を思い切って短くしたため、くせ毛が柔らかく波打ち頬に陰影を落としている。
手の込んだ手法で水色のリボンが編みこまれた髪の毛は頭のてっぺんでまとめられ、そこから長い髪がくるくると渦を巻いて流れ落ちていた。
ユイリの混ざりっ気のない賛辞を受けて、ココはにっこりと微笑んだ。
「あたし、昔から手先は器用だったんです。……それとお嬢様。あたしのことはココとお呼び下さいな」
「え。呼び捨て、ですか?」
「はい。高貴な方は普通、下々の者を敬称付で呼ぶことはいたしません。それと敬語も」
「だったら、ココさ……ココもそのお嬢様っていうのはやめてほしいんだけど」
「それは無理でございますわ」
てきぱきと後片づけをしながら、ココはあっさりと否定した。
「お嬢様はあたしの主でございますもの」
「……えと。昨日も似たようなことを言っていたよね? 小間使いとかって」
「はい。昨日付でお嬢様のお側にあがるようにと、命じられましたから」
「命じられた?」
「はるばる異国から来られた高貴な方が難儀している、と。聞けば召使もお連れしていないということで、急遽あたしがお側にあがることになったんですよ」
「いや、もともと召使なんていないし」
「まぁ! きっと大変な旅路だったのですね。いいんです! 何も言わなくても、あたしにはちゃんと分かっていますから」
ココはすかさず突っ込みを入れようとしたユイリを制して、きらきらと輝く瞳を向けた。
「これからはあたしがお側におりますので、どうぞご安心ください!」
「……」
そういう話ではないのだと言えるはずもなく。
ユイリは口元を引きつらせながら、曖昧に笑った。
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