世界の果てで紡ぐ詩

17.

 ちょうどその時を見計らっていたかのように、控えめに戸を叩く音が聞こえお仕着せを来た少女が二人、部屋に入って来た。
 一人がテーブルに白い布を広げ、もう一人がワゴンから慎重な手つきで蓋つきの皿と銀の食器とグラス、オレンジジュースの入ったピッチャーをテーブルに並べる。
 そしてユイリの顔を見ることなく軽いお辞儀をすると、静かに部屋から出ていった。

「あまりお時間がないので、軽いお食事しかご用意できなかったんですが……」

 ココが申し訳なさそうに言いながら蓋を取ると、野菜と肉の煮込みスープとふわふわのスクランブルエッグ、そして香ばしい匂いのするパンが現れた。
 喜色満面、ユイリは「いただきます」と手を合わせると、さっそくパンにかぶりつく。
 生まれてこの方テーブルマナーなどとは無縁に暮らしていたため、左手にパン右手にスプーンという行儀の悪い格好だが、昨夜はあまり食べられなかったせいか今日は美味しそうな食物の香りに、唾液腺が大いに刺激された。

「美味しい!」

 昨夜の食事で立証済みだった料理の味に、舌づつみをうった。
 パンは香ばしくスクランブルエッグはふんわりとまろやかで、スープは上品な味わいが味覚神経を楽しませてくれる。

 ココはピッチャーからオレンジジュースをグラスに注ぎ入れ、ユイリの前に置いた。

 マナーを無視してかちゃかちゃ音を立てながら食事を堪能するユイリを、ココは行儀が悪いと思ったにせよ顔には出さず、にっこりと微笑みを浮かべながら見つめていた。

「それはようございました。朝食後すぐのお召しがなければもっと手の込んだものをご用意できたんですが、そう言っていただけて良かったですわ」

 その瞬間、ずずずと音を立ててスープを飲んでいたユイリの動きが、ぴたりと止まった。
 左手のパンも、力を入れすぎた手の中で哀れにもひしゃげている。

「朝食後、すぐに……?」
「はい。神官長様がお会いになりたいとのことですので」
「神官長様って、神殿内で一番偉い人?」
「このウェレクリールで、一番尊い地位におられる方ですわ」

 微妙な訂正を加える。

 ユイリは、何とも言えない視線をココに向けた。

 忘れていたわけではないけど、忘れたかったのも事実。
 国をあげての大切な儀式の前に、狙い澄ましたかのように当の儀式が行われる場所から現れた、明らかに不審すぎる人物。それがユイリである。
 そんな怪しい人物に、神殿で(もしくは国で?)最も高い(ココが言うには尊い)地位にある神官の長が会いたいと言っているという。

(まさか拷問されるの、私?!)

 たらたらたらと、擬音をつけるならまさにそんな感じで変な汗を流しながら、急に食欲をなくしてしまったユイリは手に鷲掴んでいたパンをそっと皿に戻した。
 すかさずココが、ナプキンを差し出してくれる。

 ユイリは引きつった笑顔を浮かべながら、ココに聞いた。

「ちょっと聞きたいんだけど……その、神官長様って、どんな人?」
「もちろんお優しいお方ですわ!」

 即答し、ココは申し訳なさそうに付け加えた。

「あたしのような身分では、直接の拝顔は叶いませんが」

 会ったことはないらしい。
 ユイリは、ふふふと明後日の方を向きながら笑った。

 拷問コース、監禁コース、ギロチンコース……。
 ユイリ自身の位置づけが分からない以上、最悪の展開しか思い浮かばないのは仕方のない話である。
 誰が命じたのかは分からないけど、ココを小間使いとしてユイリの側に付けた意図も不明だから、これを善意と解釈していいのかも迷うところだ。
 まさかココが、全てを知らされた上で監視をしているということはないと思うけど。

 ユイリは口の回りについたパンくずを丁寧に払い落とし、手についたバターをナプキンで拭った。

 それを食事終了の合図だと取ったのだろう。
 ココが有能さを証明すべく、テーブルを綺麗にそして素早く片し始めた。

「そんなにご心配にならなくても大丈夫ですよ。神官長様はお若くして今の地位におつきになられた、慈悲深いお方。儀式の関係者であるお嬢様を、そう無下にはいたしません」
「……」
「それに中央から聖神官様がいらしていますし、儀式についてのお話があるのではないでしょうか」

 聖神官=クラウス。
 彼が浮かべる酷薄な笑みが、脳裏をかすめた。
 ぞわぞわっと鳥肌がたったので、ドレスの裾でこしこしと腕をこする。
 ココは儀式についての話があるのではと言ったが、それはないと思う。
 ユイリは儀式とは全くの無関係だし、そもそもクラウスに何か話したいことがあるのなら言っていたはずだ。
 昨夜ユイリの部屋を訪れた時に。

 そういえば。
 ふと疑問が浮かび、ユイリは動きを止めて顔をしかめた。
 昨晩の記憶がひどく希薄で、いつクラウスが出ていったのかもいつベッドに戻ったのかも全てが曖昧でぼやけていることに、今さらながら気づいた。
 そう、クラウスがユイリの首に触れ耳元で何かを囁いて以降のことが。
 ……。

(まさか何か変なことをされたわけじゃないでしょうね?!)

 突飛な考えが浮かんできて、ユイリはさぁっと顔から血の気が引いていくのを感じた。
 テーブルの上でオレンジジュースの少し残ったグラスが傾ぐのも気に留めず(中身がこぼれる前に、有能な小間使いであるココが見事にキャッチした)、勢いよく椅子をひき立ち上がる。
 そしてスカートの裾に足をもつれさせながらも大慌てで化粧台の前に行くと、素早く全身を点検した。

「お、お嬢様?!」

 がばっとスカートを持ちあげたら、ココに悲鳴を上げられてしまった。

「なんてはしたない!」

 そんなこと言われても、貞操の危機かもしれないのです。

 仁王立ちになって眉を吊り上げているココに、ユイリは首をすくめた。

「でも、ペ……ペチ……」
「ペティコートでございますか?」
「そう。それが邪魔で中身はあまり見えなかったし」
「そういう問題ではございません! そもそも……」

 ココから淑女の何たるかについて講釈を受けながら、人前でお風呂に入るよりはましだと思うけど、と反論したいのを何とか押しとどめる。
 
 しかしそう思う反面、ココの講釈を話半分で聞きながらユイリはほっと胸を撫で下ろしていた。
 別に体中を点検せずとも、朝起きた時普通にベッドの中にいてきちんと服を身につけていたことを考えても、おかしなことはなかったと思う。
 しかもクラウスの自分に対する興味は、異性に対するそれでは絶対にないという直感があった。
 むしろもっと底冷えがするような。

 ユイリは一度ぶるっと身震いをした。

 体温をあまり感じない冷たい手が、ユイリの首に巻きついた時の感触を思い出したのだ。
 あの時、そのまま絞められることを覚悟し、それを止める術を持たずにクラウスを見つめることしかできなかった。
 でもクラウスのガラスのような瞳には、ユイリの姿など映ってはいなくて。
 そして、記憶が途切れる前に語られた言葉。
 あれは何だったのだろう?

 途方に暮れたまま無意識に手を触れたのは、首元。
 ハイネックになっているので肌は見えなかったが、手を触れた時に違和感を覚え訝しげな顔をした。

「いけません、お嬢様!」

 ハイネック部分のボタンを外そうと手を伸ばしたら、ココに止められた。

 ユイリは、仕方なしに首にかけていた手をおろす。

「ごめん、でもちょっと気になることがあって……昨日首に怪我をしたから大丈夫かなって思ったんだけど」
「お怪我をなさったのですか?」
「切り傷程度だけど……」

 あの偉そうな騎士サマのせいで。

 ユイリは言外につぶやいた。

 たぶんさっきの違和感は、傷がかさぶたになって服にこすれているから感じたものだと思うけど、どうしても気になってしまう。

 ココは、素早くボタンに手をかけた。

「切り傷はなかったと思いますが、もしあるのなら手当てをしておいた方がいいですわね」

 そう言ってくつろげた首元には、しかしかさぶたどころか傷一つなかった。

「そんなはずは……」

 ユイリは彼女としては珍しいことに、頼りなげにつぶやいた。
 
「傷にならなかったのなら、それで良かったではありませんか」

 ココは呑気にそう言うと、ハイネックのボタンをもう一度かけ直した。

 良かったですむならそれでいい。
 普通だったらユイリも、さほど気にも留めず忘れてしまうようなことかもしれない。
 しかしなぜという思いは、しこりのように重くユイリの中に残っていた。

 扉の外から来訪者を告げる声が聞こえ、部屋から連れ出された時でさえ、ユイリの頭の大部分を同じ疑問が占めていた。

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