世界の果てで紡ぐ詩

19.

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」

 彼は、人を和ませる独特の雰囲気を身に纏ったまま、優しく言った。
 
「とにかく掛けなさい。……ユイリ」

 優雅な仕草で、今は火の入れられていない暖炉傍のソファを指し示す。
 その洗練された動きにどぎまぎしつつ、ユイリはもぐもぐとお礼らしきものをつぶやいた。

 しかしそうする間も、彼が自分の名前をとっくに承知しているように発音したことを、ユイリは聞き逃さなかった。

 彼はデスクの前に置かれた椅子に座るかわりにユイリの向かい側のソファに腰かけると、ふと笑みを浮かべた。

「あなたのことは報告を受けています。しかしこちらが名乗らないままあなたの名前を口にしたのは、少々不躾だったかも知れませんね、失礼いたしました。私はウェレクリールの水の神殿で神官長を務めている者で、レイフォードと言います」
「レイフォード、さん?」
「はい。どうぞレイと呼んで下さい」
「あ、私は……」

 ユイリは慌てて本名を名乗ろうとしたが、あの得体のしれない感覚を思い出して途中で言葉が続かなくなってしまった。

「私は、その」

 途方に暮れて情けなく眉を下げているユイリに、レイは苦笑を浮かべた。

「そのままで構いません。本名を名乗ることはすなわち、真名を与えることと同じ意味を持っていますから」
「真名?」
「真実の名前で真名です。すでにお気づきかもしれませんが、この世界には端々にまでアメシスが満ちていて、精霊の加護を持つ者が発する言葉はそれ自体が力を持つのです」
「?」
「真名を明け渡せばその分相手から影響を受けることになりますから、それを考えれば慎重になる必要があります」
「なるほど」

 だからウェネラは最初の時、名前を明け渡したら運命から逃れることができないと言ったのだ。
 真実の名前、つまりフルネームを名乗ってしまったユイリは、相手――ウェネラから影響を受けることになってしまうから。
 ユイリはようやく納得した。
 ということは、ウェネラにフルネームを名乗ってしまった後下の名前しか言わないようにしたユイリの判断は、間違いではなかったのかもしれない。

(ん? ちょっと待てよ。真実の名前を名乗っちゃいけないってことは……)

「レイさんの名前は偽名ですか?」

 レイは、口元に笑みを刷いたまま首を横に振った

「そういうわけではありません。もちろん本名です。全てを名乗っているわけではないにしてもね」
「そっか。じゃあ、他の人もそういうものなんですか? さっき私をここに連れてきた人とか」
「そうです」

 フルネームを名乗らない方がいいというのは分かったが、名前の一部分しか名乗れないというのはなんだか変な感じがする。

 言葉よりも雄弁なユイリの表情を見つめ、レイはゆっくりとした口調で言を継いだ。

「特にこの神殿は精霊の加護深い場所ですので、言葉の持つ力には注意を払う必要があります。ここには数多くの神官がいますからね。名前だけではなく、一つ一つの言葉にさえ、アメシスは反応します」
「反応するとどうなるんですか?」
「意味のある言葉であれば、相応の効力を発します」
「……言ったことが、全て叶っちゃうってことですか?」

 レイはどう説明しようか考え込むようにユイリをじっと見つめていたが、不意にユイリから視線を外してサイドテーブルを見つめた。
 正確には、サイドテーブルに描かれた円形の紋様に視線を落とした。

「……そういえば、飲み物がまだでしたね」
「え? あ、おかまいなく」
「紅茶で構いませんか?」
「えーと……ありがとうございます」

 レイの意図が掴めずに、ユイリは困惑の表情を浮かべた。

 紅茶よりも、今までの話は一体どうなったのだろう。
 そう思いレイをいぶかしげな眼差しで見つめていると、レイはソファから身を乗り出してテーブルに右手をかざした。
 そして、不思議な響きを持つ音で言葉を紡いだ。

「イオ ラル ディーア インフェリレージ」

 音が意味ある言葉としての響きを持つと、テーブルの上に流れる空気の層が、豊かな旋律を奏でた。
 同時に、音に触れた紋様が淡い光を発してそこに描かれた文字を浮かび上がらせ、光の魔法陣がくるくると回り出す。
 光はやがて中心に集まってひと際大きく輝くと、次の瞬間にはクラシックなバラ模様が描かれた、透明な白さを持つ磁器のティーカップが二つ、紋様の上に現れた。
 紅茶からは、甘い花のような香りが漂っている。

 ユイリは驚きのあまり口をぽかんと開けたまま、目を白黒させた。

「どうぞ」
「……どうも」
「アルストゥラーレ名産の茶葉を使った紅茶です。渋みは強いですが、甘い花のような香気は温度によって変わるので、幾通りもの味を楽しむことができますよ」
「うわっ、ホントだ! 美味しい」
「それは良かった。一つ部屋に届けさせましょう」
「ありがとうございます。……って、なんか主旨が変わっているような気がするんですけど」

 ジト目のユイリに、レイは苦笑めいた笑みを浮かべた。

「変わっていませんよ。精霊の加護を持つ者が発する言葉というのは、つまりこういうことなのです」

 ユイリはテーブルを見、その上に描かれた紋様に視線を止めて納得したようにポンと手を叩いた。

「魔法ですね!」
「紋様術と私たちは言っています」

 澄ました顔で訂正して、レイは一口紅茶を飲んだ。

「紋様術はその名の通り、紋様を使った呪術のことです。紋様にはアメシスが織り込まれ、そこに刻まれた紋様が緻密であればあるほど高い効力を発します。ただし紋様術を扱えるのは、精霊の加護を持つ者だけ。紋様を刻むのも力ある言葉を唱えて紋様術を発動させられるのも同様です」
「ちょっと待って下さい。レイさんの言葉を聞いていると、紋様と言葉はワンセットって感じですけど」
「その通りです」
「じゃあ、ラクリマが歌う詩《うた》とは別物なんですか?」
「ああ……。彼女たちは特別ですからね。普通は、アメシスを封じ込めた紋様を媒体として力ある言葉を唱え、初めて術が発動するのです。故に紋様術、と」
「ふぅん」

 いろいろと複雑らしい。

 レイは、微かな笑みを含ませた表情で言った。

「そう難しく考えずとも、根本は同じだと考えて下さい。精霊の加護を持つ者でなければ、力ある言葉を紡げません」
「はぁ」
「世界の均衡を保つ詩《うた》や聖典にある言葉はラクリマにしか歌えませんが、紋様術はある程度精霊の加護を受けていれば、紡ぐことができる言葉です」
「ってことは……もしかして、私でもその紋様術を使えるかもしれないってことですか?!」
「どうでしょう。力を持った言葉を紡ぐことは、とても難しいことですから」

 ユイリは、目に見えてしょんぼりした。
 するとレイが、悪戯を思いついた子供のように笑い、楽しそうな表情を浮かべた。

「よろしかったら、試してみますか?」
「……変なことが起こりそうな気がするんですけど」
「力が足りなければ何も起きないので、大丈夫ですよ」
「じゃあ、ちょっとだけ」

 やはり楽しそうにユイリが答えた。

(だって、せっかく異世界に来たんだから魔法くらい使ってみたいし!)

 キラキラとワクワクが微妙に入り混じった瞳は、期待に満ち溢れている。
 ウェネラに力が足りないと断言されたことなど、あっさり綺麗に頭の片隅まで追いやってしまった。

「まず対象となる紋様に手をかざして……そう、利き手でかまいませんよ。ここに刻まれているのは空間転移の紋様術なので、呼び寄せたいものを思い浮かべて下さい。何でも構いませんよ。ただし、テーブルの上にのるものでお願いしますね。そうしたら発動呪文を唱えるんです」
「何でしたっけ」
「先ほど私が唱えたのは詠唱破棄をした呪文なので、まずは正確なものを覚えたほうがいいと思います」

 紋様の上に右手をかざしたまま期待の眼差しを向けるユイリに、レイはその言葉を教えた。

「アメシス アドゥナール イオ ラル ディーア インフェリレージ
《そのもの より集いて 我に 更なる力を 与えん》」

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