世界の果てで紡ぐ詩

02.

 その少女は、一流の職人が一生を費やしても創れないほどの芸術品だった。

 銀色の髪は深い谷底を流れ落ちる滝を思わせ、長いまつげに彩られた瞳は闇夜に浮かぶ月にも似た淡い金色。

 いつの間にそこにいたのか。

 唯理以外人影のなかったはずの白い空間に現れた、一人の少女。
 本当だったら喜んで駆け寄りたいところだが、まず少女が血の通った生き物かとっさに判断できず、まじまじと見つめることしかできなかった。

 微動だにせず見つめあうこと、しばし。

 最初に動いたのは少女の方だった。

「ずいぶんと鈍い子ねぇ」

 形の良い弓型の眉を片方だけ少し上げ、偉そうに腕を組んで一言。

 まさか少女の口からそんな言葉が出てくるとは思えずに、唯理はきょろきょろと辺りを見回した。

「反応だけじゃなくて、頭も鈍いってわけ? これじゃ先が思いやられるわ」
「えっと、その、あの?」
「……まずその格好。見苦しいから、やめなさい」

 少女はわざとらしく大きなため息をついて、呆れたようにすっきり尖った顎をしゃくった。

 その格好と言われて、スカートのまま胡坐をかいていた唯理は慌てて居住まいを正す。

 なぜか正座をして姿勢良く見つめてきた唯理に、少女はもう一度ため息をついた。

「わざわざこの私自らが出向いてきたっていうのに、これじゃ期待外れもいいところだわ」

 どうやら唯理は、少女のお眼鏡に叶わなかったらしい。
 見も知らない年下の少女に、なぜ初対面で貶されないといけないのかは分からないけど。

「私は水の精霊ウェネラ。で、あんたの名前は?」

 水の、精霊?

「……えと。名前、ですか?」
「そう、名前。自己紹介くらいできるでしょ」
「…………し」
「し?」
「知らない人には名前を教えちゃいけないって言われているので」

 まずいことを言ってしまったと思ったのは、少女――ウェネラがもの凄い形相で近づいてきたから。

 唯理は内心冷や汗をだらだら流しながら、正座をしたまま上半身だけ後ろに反りかえった。

「名前は?」
「……瀬名唯理、です」

 何となく恐怖を感じて、唯理はあっさりと白状した。
 危険を冒してまで、隠したいほどの名前ではない。

 ウェネラは、美少女らしからぬ仕草で鼻をならした。

「そう、ユイリね。一つ忠告しておくけど、私は気が長いほうじゃないから、あまり怒らせないでちょうだいね」
「す、すみません」

 唯理は正座をしたまま縮こまったが、すぐに背筋をぴんと伸ばして勢いよく身を乗り出した。

「あの! つかぬことをお尋ねしますが、ここは一体どこですか?」
「虚無の世界。つまり、何もない世界。世界と世界をつなぐ場所。魂が集う安息地。いろいろな呼び名があるわねぇ」
「ま、まさか……私死んじゃった、なんてことは」
「ないから安心していいわよ。だって死人に用はないもの」

 素直に安心できないようなことをさらりと言う。

 眉をハの字にして落ち込む唯理を、ウェネラは鬱陶しそうに見つめた。

「まったく。本当だったら元の世界に返品してあげたいところだけど、運命はあんたに白羽の矢を立てたのだから、こればかりは諦めるしかないわね」
「……いまいち状況がわからないんですけど」
「最初の印象通り、鈍い子ねぇ。つまり、あんたは幸運にもうたに選ばれてしまったってわけ。しばらく元の世界には戻れないから、未練はさっさと捨てたほうがいいって忠告してあげてるのよ」

 しばらく戻れないとか未練は捨てたほうがいいとか、言葉は理解できるけど意味がさっぱり分からない。
 唯一分かるのは、どうやらあの楽譜が元凶らしいということ。
 目の前にいる少女が水の精霊だとか言っていること自体、普通では考えられないということ。

(だって、精霊なんて童話とかファンタジー小説に登場してくるだけの、架空の存在だし)

「はいはい、現実逃避はそこまで。今はまだ信じてくれなくてもいいけどおいおい信じてちょうだいね。あんたには大事な役目が待っているんだから」
「や、役目?」

 どんどん話が大きくなっていくような気がするのは、果たして気のせいなのか。

「そう、役目。今はまだ詳しくは言えないけど、あんたには、世界の均衡を保つっていう重要な役目があるの。人選には大いに不満があるし私も納得いかないけど、これも運命だと思って諦めてちょうだいね」

 ますます頭痛がひどくなってきて、唯理は痛むこめかみを押さえた。

「……あのぉ、これって夢、ですよね?」
「あんたは目を開けたままで夢を見るの? ずいぶんと器用ねぇ」
「……うう」
「まぁ、ラッキーだと思うことね。平凡で冴えない一生を送るはずだったあんたに、この私が親切にも非凡な運命を用意してあげるんだから、感謝しなさい」

 偉そうに、感謝しなさいなんて言われても困る。
 少しずつ冷静さを取り戻してきた頭が、これは現実ではないと囁いている。

(……うん、これは夢だ、絶対夢だ。っていうか、夢じゃないと困る)

 まさか夢の産物がこれは夢だと認めるわけがないから、やっぱり今起きているのは全て夢の中の出来事。

 唯理は無理やり心の中で結論を導き出し、こてんとその場に倒れこんだ。

(もう一度寝れば、次は自分の部屋で目が覚めるかも……)

「この私がありがたくも直々に説明してやっているのに、いい根性してるじゃない」

 目を閉じていても、ウェネラの声が怒りに震えているのが分かる。

 悪寒がして嫌な汗が流れてきたけど、夢という言葉を連呼して無視を決め込んだ。

「後で後悔しても遅いわよ。名前は言霊。あんたが私に名前を明け渡した時点で、もう運命から逃れることはできない」
「――えっ、それってどういう」

 思わず聞き返そうとした言葉は、その後を続けることができなかった。
 なぜなら、唯理のいた場所に突然ぽっかりと大きな穴が出現したのだから。

 真っ逆さまに風を切って落ちていく唯理は、風の音に負けないくらい大きな悲鳴をあげながらも、確かに聞いた。
 ウェネラの高らかな笑い声を。
   

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