世界の果てで紡ぐ詩

24−01.

 以前訪れた時、この森には隅々にまで精霊の力が行き渡っていた。
 しかし今では、精霊の力を感じるどころか森自体が静かに死へと向かっていくように、重苦しく陰鬱いんうつな気配を纏っている。

 ウェレクリールの今の季節は、夏。
 五国の中で最も北に位置するこの国では、本来であれば厳しい冬を抜けて自然が豊かに芽吹くはずの季節である。

 詠唱と共に訪れた眩い光の洪水が収まった時、一人が無表情に辺りを見回す傍らでもう一人が鋭く息を飲んだのは、その落差の激しさ故だった。
 たった数年の間に何が起きたか、この二人は知っている。

「何を驚いているんだい?」

 無表情に事の成果を確認しているクラウスからは、何の感情も窺えない。
 問われた男は一瞬の動揺を恥じるように、目を伏せた。

「申し訳ありません。まさか精霊の力を失うということが、これほどのものとは思ってもみなかったのです」
「今さらになって、怖くなったと言うつもりじゃないだろうね?」

 身体に震えが走るのを、男は感じた。

「そ、そのようなことは」
「ないなら余計な感情は持たないことだ。そんなものは邪魔になるだけだし、邪魔なものを切り捨てる手段を僕は知らないわけではないから」
「申し訳ありません……!」

 顔を歪ませて謝罪する男に冷ややかな一瞥いちべつを落として、クラウスは男の存在を意識の外へと追いやった。

 薄灰色の干からびた樹影は、葉を茂らせることもできず天に痩せた枝を伸ばすが、容赦ない日差しは木々だけではなく虚しく晒された大地からも残された水の気配を奪っていく。
 ウェレクリールの夏は厳しくなくとも、精霊の加護を失いアメシスの乏しい森にはあと幾ばくかの時間すら残されていないように見えた。

 クラウスは、かつて豊かな水を湛えていた小さな泉に足を踏み入れた。
 正確には、泉があったはずのひび割れた窪みに歩を進めた。
 水のせせらぎも小鳥のさえずりも草木が風に戯れる音もない中で、クラウスが大地を踏む乾いた音だけが耳に痛みを残す。

「――あった」

 中央付近で足を止めたクラウスは、満足そうに目を細めてその場所を見つめた。
 そこに描かれていたのは、紋様術だった。
 泉を枯れさせ森を死へといざなうために施した、精霊への呪縛。
 水の中に描かれていたとは思えないほど、くっきりと鮮やかに浮かんだ幾何学模様の複雑な文字列が、そこに浮かび上がっている。

 クラウスは、手にしていたゴブレットの縁を人差し指の腹でなぞった。
 吸い込まれそうに澄んだ色合いのそれは、深い水の色を湛えて太陽の下で揺らめき、清冽な水が溢れだしているかのように錯覚させる。
 ウェレクリールで最も水の力を宿している聖器――水の聖杯だった。

 本来であれば神殿奥深くに隠されているはずのそれを手の平に収めると、クラウスは静かに力ある言葉を紡いだ。

「アメシス アドゥナール イオ ラル ディーア インフェリレージ――
《そのもの より集いて 我に 更なる力を 与えん――》」

 クラウスの発した言葉が意味を持つと、大地に刻まれた紋様術が光を宿して浮き上がり、徐々に光輝を深くする紋様と連動するように、クラウスの手の内にある聖杯にさざ波が広がった。

 精霊の加護なくとも、周囲を満たす荘重な気配は感じることができる。
 男が足をすくませ茫然としているのは、抗いがたい畏怖の念に圧倒されているからだ。
 数年前も、やはりこの場所で同じ光景を目にした。
 ただしあの時とは逆に、解放されるアメシスがクラウスの紡ぐ言葉と聖杯に反応して喜びに震えている。

(――恐ろしい方だ)

 精霊の力を削ぐためにアメシスを封じ、ラティスの泉の支流であるこの泉を枯れさせ森を死に至らしめる力を持つクラウスが。

 しかしそう思っていても、逆らうことすらできないほどに彼の冷酷さを知っている。

 クラウスは聖杯を収めたまま、浮き上がった紋様の上に手を掲げた。
 そして、抑制された声で言葉を繋ぐ。

「ドゥーロ ネッラ クゥエル インシェイン アメシス
《堅牢なる 虚空の檻に 封じられしもの
ニァ チェウラーレ ウェレア ディーア
揺らぎ無き 水の 力よ
イストゥラ エイン アマーリトゥナ ティスィシラーレ
今こそ その呪縛を 解き放ち
アルスィレント ディーレ エトランテ トゥーリー セネルスィ
眠れる力 あるべき姿へと 還らん》」

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