世界の果てで紡ぐ詩
24−02.
クラウスの手の中にある聖杯が、小刻みに震えだす。
次の瞬間には、澄んだ清流が溢れんばかりに聖杯を満たしていった。
「――加減が分かりにくいな」
眉根を寄せて、うんざりしたように呟く。
聖杯は封印の紋様術を解くのに十分なアメシスに満ちているが、果たしてどの程度必要なのか。
全てを解くわけにはいかず、かと言ってあまりに微量過ぎては水の加護を一時的にウェレクリールへ戻すことはできない。
僅かに逡巡したクラウスは、やがて聖杯からほんの一滴の雫を紋様術の上に垂らした。
それが浮き上がった光の紋様に触れた瞬間、泉のあった窪み全体にアメシスが青い光となって広がり落ちて行く。
大地に刻まれた紋様術が、ひどく乾いた音で軋みをあげた。
その隙間から、大地に染みいるようにアメシスを含んだ清水が湧き出してくる。
クラウスは青い光の外に出ると、放心したように立ちすくむ男を冷ややかに一瞥した。
「何をいつまでも呆けている。最後の仕上げは君にやってもらわなければいけないと言うのに」
「は、はい!」
男は、慌ててクラウスの元へと駆け寄った。
否、駆け寄ろうとした。
しかし、辺りに満ちるアメシスの気配に圧倒されて近づくことができない。
息苦しさに喘ぐ男を、クラウスは嘲りを隠そうともせず見つめた。
「哀れだね、精霊の加護を持たない人間というのは。ラティスの泉の支流にすぎないこの場所ですら、近づくことができないと言うのかい?」
男の胸が忙しなく上下し、全身が細かく震えだす。
「アメ、シス、が……」
「あぁ、そうか。アメシスの開放が身体に負担を与えているんだね。微量とはいえ、この場所に生身の人間がいるのはさぞ辛いだろう」
「……」
「もっとも、僕は君の苦しみなど興味はないけど。ただしそれが、目的に支障をきたさない程度なら、ね」
「ク、クラウス様……」
「――制約を」
クラウスは、耐え切れずにうずくまる男の哀願を無視して促した。
男の肩が一度大きく震え、俯かれていた顔がゆっくりと上げられる。
その苦痛に満ちた顔には、暑さによるものとは別の汗が滲んでいた。
男は這いずるように泉の縁に近づくと、手の平に禍々しく刻まれた紋様を大地に押し当て、言葉を搾り出した。
「……イオ ソーマ アンテ ィレストゥ……ラーレ」
男が触れている場所から窪みの紋様術まで、一直線に亀裂が入った。
亀裂は紋様術を取り囲むように分裂し、男の手の平に刻まれていたものと同じ円を形作る。
禍々しくも黒い光の増殖は凄まじく、喜びに打ち震えていたアメシスを喰らい尽くすように呑みこんでいく。
アメシスが、悲痛な叫びをあげた。
だがそれも徐々に収まっていき、辺りが最初の荒廃を晒す頃には、男の荒い息遣いとクラウスが手を叩く乾いた音だけが響いていた。
「見事なものだね」
言葉とは裏腹に、その声音は冷淡な響きを帯びている。
男はのろのろと顔を上げて、ともすれば虚ろに彷徨う目の焦点をクラウスに合わせようとした。
「これ、で……よろしい、の、でしょう、か……?」
「そうだね、上出来だ。これだけ強固な封印を施しておけば、これ以上アメシスが漏れ出すことはないだろう。――残りは、まだこちらの手の内にあるわけだし」
クラウスの愉悦に満ちた視線が、手の中の聖杯に向けられる。
男が生み出した黒い光は、聖杯に溢れていた清流と共にアメシスまでも喰らい尽くしていた。
「さて、もう用は済んだし戻ろうか。力を削がれて弱っているとは言え、彼女も水の精霊と呼ばれる存在。レイの目眩ましがいつまで持つかも分からないから、長居は無用だ」
きびすを返して歩きだしたクラウスは、未だに息を喘がせている男を振り返って言い添えた。
「置いて行かれたくないのなら、早く来た方がいいと思うよ」
男は狼狽の色に恐怖を浮かべ、震える膝を叱咤して何とか立ち上がる。
そして、覚束ない足取りでクラウスの後を追った。
紋様術が光の粒子を帯びて二人の闖入者を飲み込むと、辺りには元の静寂が下りた。
静かに死を待ちわびる、耐え難い虚ろ――。
奇怪に絡み合う文字列が持つ意味を、男はまだ知らない。
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