世界の果てで紡ぐ詩

30.

 学院長の部屋で現実の厳しさを痛感して数日後、編入初日の朝を迎えたユイリはとぼとぼと礼拝堂へ続く廊下を歩いていた。
 前日に見取り図を見て確認したところによると、ユイリを含む学院生が住む寮のある一角は翼の一つで、礼拝堂が中央に配され学生寮の対極に位置する翼に講義堂があるらしい。
 ちょうど三角形を線でつないだ形に礼拝堂、講義堂、学生寮があり、それぞれ広い廊下が直線状に伸びている。
 広い廊下と一言で言っても、それは今までユイリが見た中でも度肝を抜く部類に入るものだった。
 高い天井には繊細な彫刻が施され、床にまで届く窓は柱廊の先まで続き太陽の光がふんだんに取り入れられている。
 しかし早朝だからなのか、石に囲まれた内部はひんやりとした静寂に包まれていた。

 ユイリは初日から遅刻していられないと気合を入れた結果、朝の礼拝には少し早すぎる時間に部屋を出ることになってしまったようだ。

 学生寮から礼拝堂へは一直線のはずだから、どう考えてもユイリが早すぎたのだろう。
 今さら引き返すこともできなくて、ユイリは仕方なしにゆっくりと歩いて時間を稼ぐことにした。

 礼拝堂へ続く柱廊はしんと静まり返っている。
 足音が響かないように注意して歩いていたが、それほど時間をかけずに扉の前に着いてしまった。

 木製の扉はいかにも重たげな印象で、金色の取っ手部分には細かな紋様が彫り込まれている。
 そして扉の前の床面には、円形に光の幾何学模様が描かれた紋様術。
 部屋を移った日に説明を受け実際に見せられていたユイリは、それでも恐る恐る紋様術の中へと足を踏み入れた。
 許可なく立ち入る者がないようにと二重に封印された扉が、取っ手の紋様と床面に浮かび上がる紋様術の光と連動して淡く輝く。
 しかしそれは一瞬のことで、扉は音もなく内側に開いた。

(紋様術っていうのが使えなくても、アメシスが封じられた小物さえ持っていれば大丈夫って言うのは便利だよね)

 シンプルな白と黒の制服と一緒に届けられた、何の変哲もない銀色の指輪に手を触れながらユイリは心の中で呟いた。
 右手の中指にはめられたそれは紋様術師が創りだしたもので、学院内を自由に動き回るために必要不可欠なものである。
 つまり鍵のようなものだと都合よく解釈してみたが、実際に指輪が効力を発揮する場面を見るのは複雑な気がした。
 どうも、ますます現実世界から遠ざかっていくような気がしてならない。
 ユイリはそう思ったが、そんな複雑な気分はこの際無視することにした。
 もともと楽観的な性格だし、いちいち立ち止まって考え込んでいたら前には進まない。

「よし!」と気合を入れて相変わらずの忍び足で堂内に足を踏み入れたユイリは、何気なく正面祭壇に目を移してぎくりと立ち止まった。

 そこで祀られていたのは、慈愛の微笑みを浮かべた女神エレスティア――。

 鳥肌が立つほどの既視感に襲われて、ユイリはよろめきながら木組の背もたれに手をついた。
 そのままずるずると床に座り込み、浅く荒い息を繰り返す。

 一瞬、いつか見た夢の光景が鮮やかに蘇った。
 夢と現実の境界があいまいになり、流れ込んできた膨大な映像を処理することができずに、吐き気がこみ上げてくる。
 思いだしてはいけない。
 ユイリは無意識に、心の中で繰り返した。

 だがその光景が完全な形を取る前に、一度は閉じられたはずの扉から隙間風が吹き込んできた。
 誰かが紋様術を発動させ、扉が音もなく開かれようとしているのだ。

 びっくりしたはずみで脳裏に浮かびあがりかけていた映像は跡形もなく霧散し、ユイリは訳もなく慌てふためいて辺りをきょろきょろと見回した。
 礼拝堂は広々としているせいで、隠れられそうな場所はあまりない。
 別に悪いことをしていたわけではないが、ユイリはとっさの時の判断に自分の勘を頼るようにしていた。
 ……ただ単に、臆病風に吹かれたというだけでもあるが。
 ともかくユイリが最善の隠れ場所と選んだのは、木組の席の下だった。
 ユイリは、ぽっかりと空いた小さな空間に無理やり身体を押し込んで、床面と座面の間にできた隙間からそっと目を覗かせた。

 重厚な扉が、重さを感じさせない軽やかさで空気を押してゆっくりと開く。

 隠れてしまった以上、相手に気づかれないように逃げ出さないと言い訳が立たないことに気付いて焦ったが、靴音が扉の内側に入ってきた時点ですでに後の祭りでしかなかった。

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