世界の果てで紡ぐ詩

31.

「……誰も、いないわ」

 吐息とともに呟かれた声は、澄んだ響きを持ってユイリの耳に届いた。

 今さら席の下から出るわけにもいかず途方に暮れるユイリには気づかないまま、もう一つの声が最初の声に応えた。

「今が何時だか知ってる、シェイラ? こんな早くから礼拝堂に来る間抜け、いるわけがない」
「でも、寮の廊下を歩く足音が聞こえたのよ。だからわたくし、てっきり信心深い誰かが来ているものだと思ってしまったの。アレイシアにも聞こえたでしょう?」
「さぁ。そんな音は聞こえなかったけど。それよりも、二人きりの時にその名前で呼ぶのはやめてほしいんだけど。大っ嫌いだから、それ」
「ごめんなさい! すっかり忘れていたわ」

 シェイラは、慌てて言った。
 対してアレイシアと呼ばれた少女は、寝起きなのか少しかすれた声に不機嫌さをにじませている。
 あくびをかみ殺しているせいで、時々隠しきれなかった息が漏れる音が聞こえた。

 生徒以外は許可を持つ者しか立ち入ることの許されない礼拝堂にいるということは、彼女たちもアデレイド女学院で学ぶ生徒だということだろう。
 特に隠れる必要性はなさそうだが、“こんな早くから礼拝堂に来る間抜け”呼ばわりされたユイリとしては、やはり躊躇ためらってしまう。

(ふんだ。どうせ、私は間抜けですよーだ)

「でも、普段はアレイシアって呼んでいるんだもの。レ、レイスって言うのはとても呼びにくいわ」
「……どもってる」
「揚げ足を取らないでちょうだい!」

 恥ずかしそうに言うシェイラとアレイシア改めレイスは、ユイリが隠れているすぐ脇の通路を通って五列ほど前の方へと移動した。
 一瞬冷やりとしたが、二人は隠れているユイリに気づいた様子はない。

 ユイリは席の下から這い出て、微かな物音も立てないように気をつけながら、前の席の背もたれに隠れて顔だけをそろりと覗かせた。
 学院の制服に身を包んだ少女たちは、ユイリにちょうど背を向ける形で立っている。
 いかにもお嬢様然としているシェイラとは違い、レイスの仕草や言葉遣いにはそういったところは見受けられない。
 アデレイド女学院は貴族の子女以外にも門戸が開かれているらしいから、レイスはユイリと同じで貴族の出ではないのかもしれなかった。

 まさか堂内に第三者がいて観察されているとも知らない彼女たちは、友達同士が持つ気軽さで他愛もないお喋りをしている。
 観察するには絶好のチャンスだが、簡素な白と黒の制服は皆一緒で、更に後ろ姿からでは頭巾に隠れてしまっていて観察のしようがなかった。

 仕方がないのでこの隙に逃げ出そうと腰を上げかけたユイリは、しかし次の瞬間動きを止めた。
 再び彼女たちの話題が飛んで、自分のことになったからだ。

「そう言えば、今日から編入生が来るんだってね」

 レイスの言葉に、背が低い方の頭巾が頷くように揺れた。

「ええ。編入生なんて珍しいから、みんな噂しているわ」

(やっぱり噂になってるんだ)

 人知れず泣きそうになるユイリを余所に、お喋りは続く。

「ただの編入生ってだけじゃなくて、神官長様が実際にお会いになって学院へ推薦したって噂は?」
「事実みたいよ。ちょうど夏季祭も間近な時期だから、セシリアたちが大騒ぎしていたもの」
「ふぅん」
「……。ふぅんって、それだけ?」
「それだけって?」
「反応が薄すぎだわ! 夏季祭って言ったら聖劇よ? そしてセシリアたち実行役員が大騒ぎしているとくれば、分かるでしょう?」

 考えているのか、レイスが答えるまで数秒かかった。

「分からない」

 レイスの答えが気に入らなかったらしいシェイラは、地団太を踏む勢いで言った。

「セシリアたちが、編入生獲得に動いているってことよ! そしてそうするだけの力を、実行役員は持っているの。このまま彼女たちに大きな顔をさせていたら、夏季祭はめちゃくちゃなことになってしまうわ!」
「そんなことは……」
「甘いわよ、レイス。いい? “汝、常に平等であれ”という学院の精神を重んじるのであれば、実行役員が聖劇の配役を決めるという今のやり方は許されざるものなの。それにも関らず、セシリアたちは神聖な聖劇をまがいものにしようとしているわ。あなたは聖劇なんて関係ないからそんなに落ち着いていられるけど、わたくしにはそれが許せないのよ」

 シェイラは一息に言うと、憤然と腰に手を当てて頭一つ分は背の高いレイスに詰め寄った。

「だって聖劇で悲哀の聖女役を演じることは、すなわちラクリマとしての素質を認められることに他ならないんですもの!」

(ラクリマ?!)

 ぴくりとユイリは反応して、二人が話に夢中になっていることをいいことに背もたれから更に頭を出してもっと良く聞きとろうと耳を向けた。
 傍から見るとバレバレな行動だが、二人はユイリに気づかない。

 興味津々で聞いている第三者に目を向けることなく、レイスは近づいてきたシェイラを押しやった。

「近づきすぎ。それとシェイラ、学院にはこんなものもあったと思うけど。“汝、我欲を持つことなかれ”」
「あら。わたくしはただ、平等に配役をと言っているだけだわ」

 レイスは、ユイリの元に届くくらい大きなため息を吐いた。

「それならそれでいいんだけど」
「当たり前よ」

 当然と言わんばかりに頷いたシェイラは、「ともかく」と話を元に戻した。

「話がそれたわね。わたくしが言いたいのは、セシリアたち実行役員が編入生と接触を持ってしまったら、きっと取り返しのつかない事態になるということなの」
「編入生に自分で考える頭があるなら、放っておいても大丈夫だとは思わないわけ?」
「思わないわ」

 きっぱりと否定されて、ユイリは少し切ない気分になった。
 はっきり言われたわけではないが、ユイリ自身の知性を否定されたような気分になったからだ。

(そりゃあ、初めての場所でびくついている時に優しく声をかけられたら、嬉しくなってついて行っちゃうと思うけどさ)

 その点は認めてもいい。
 でもいくらなんでも、相手が何か良からぬことを考えていれば第六感が反応してくれるはずだ。
 むしろ、反応してくれると信じたい。

(やっぱり気が重いよぉ)

 心の中で自己憐憫に浸るユイリの耳に、シェイラの高らかな宣言が聞こえてきた。

「だからわたくしたちは、実行役員に編入生を取られるより先に、彼女を獲得する必要があると思うの!」

(獲得って! 私、物扱いされている気がするんだけど?!)

「……シェイラにアレイシア、どうやらその必要はないみたいよ。だって可愛い子猫ちゃんは、自分から迷いこんできてくれたみたいだもの」

 突然後ろから聞こえてきた声と肩に置かれた手の感覚に、ユイリは堂内に響き渡る大声で悲鳴をあげた。

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