世界の果てで紡ぐ詩
36.
ユイリがない知恵を必死に絞っていると、三人の視線が逸れてその心配は一時的に棚上げされることになった。
気づくとそこには、辺りを払う静けさを帯びた女性が立っていたのだ。
気配に注視していなかったユイリは驚いたが、何よりその精彩に欠けた薄い存在感に思わず彼女の顔を見なおしてしまった。
彼女の眼差しに光はなく、そこにあるはずの温もりすら凍りついた静謐の中に意識が沈んでいる――空虚な人形のような女性だった。
とはいえ、彼女が美しい人であることは確かだ。
目深に被った頭巾から覗く面立ちは、繊細で鼻筋高く、青白い肌の下を流れる血管が透けて見えるほど色が白い。
ただ唇だけは紅を刷いたように鮮やかな朱の色合いで、そのアンバランスさがかえって彼女を作り物じみた彫像に見せている。
シェイラは落ち着き払ってゆっくり立ち上がると、優雅に膝を折って非の打ちどころのない微笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、ネア・ノエル」
ネア――
シェイラが名前の前に付けた呼称で、ユイリは彼女が何者か理解した。
学院内で、ネアと呼ばれる人間はそう多くはない。
最初に説明を受けた時、ネアという呼称をたびたび耳にし彼女たちがどういった立場にいるのか説明された。
神殿内で使われる古い女神の言葉で表される意味は、“敬慕”と“教導”。
答えを無理に捻りださずとも、答えはすぐ脳裏に浮かんだ。
「先生?」
呟いた声に疑念が宿っていたのは、彼女が教鞭をとっている姿がどうしても思い浮かばなかったからだ。
瞑想でも教えているのだろうか。
ユイリが、もしそうなら眠っちゃいそうだなぁと不届きなことを考えていると、不意にネア・ノエルの視線が揺らめいて薄く雲がかかった日の空に似た瞳にユイリを映した。
「あなたが編入生ですか?」
風がそよぐような、低い囁き声だった。
食堂のざわめきを考えれば聞こえなくてもおかしくはないのに、抑揚のない声音のせいかユイリの耳にははっきりとその言葉を聞きとることができる。
だがユイリの心臓が一瞬鼓動を乱したのは、空色の光彩の奥に秘められた何かだった。
すっかり委縮してしまったユイリがすがるようにレイスを見上げると、レイスは表情を消し去った目でユイリを見つめ返して微かに頷いた。
ユイリは、恐る恐る口を開いた。
「はい。あのぉ、私が編入生の、ええと、ユイリ……サヴィアです」
言い慣れない言葉を口にするのが難しくて、たどたどしく答える。
シェイラは優雅に、だが強引にユイリとネア・ノエルの間に割り入った。
「わたくしたち食事を終えて、講義堂へ移動するところなのです。何かご用がありまして?」
「ええ。初日ですから、講義の内容を少しお話しておこうかと思ったのです。でもあなた方と共にいるのなら、わたくしは必要ないようですね」
「そんなことでネア・ノエルにご足労をおかけするなんて、編入生ごときに特別な待遇ですこと」
言葉に甘い毒を潜ませて、ミリセントは猫のように喉を鳴らした。
しかしそれすらもネア・ノエルの琴線に届いた様子はなく、目を伏せたまま微動だにすることはなかった。
「彼女にとって最初の講義を担当するのですから、当然です。わたくしが担当するのは詩学と古典。……女神の言葉をあなたに教えることになります」
感情を見せない声で、ネア・ノエルはささやいた。
全てが欠落した印象を受ける女性なだけに、その言葉の持つ響きはとても寒々しい。
心の芯から凍りついていくような戦慄に内心おののいていると、ネア・ノエルの口元が動いた。
口角が僅かに上がり、朱色の唇が笑みを形作る。
とても小さな感情の表れだったが、そこにはぞっとする思いが込められているように、ユイリには思えた。
だが一瞬浮かべただけで笑みを消すと、ネア・ノエルは生気のない雰囲気に似合わない恍惚とした声で言葉を奏でた。
「ティーレ メントゥ リーテ エレスティア ラル ヴェネティレーネ カーレ――」
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