世界の果てで紡ぐ詩

37.

 編入初日、最初に受ける講義が詩学――つまり古の女神の言葉だと聞いて密かに期待していたとしても、ネア・ノエルの担当だと知った時点でユイリはがっくりと肩を落としてしまった。
 彼女の持つ雰囲気は礼拝堂の彫像に似て無機質で、講義自体もそう変わらない平坦なものだったからだ。
 起伏に乏しい講義は、欠伸が出るほどつまらない。
 そしてそう感じる少女は少なくないと見えて、皆一様にあくびをかみ殺しているのが見てとれた。
 しかし講義の内容だけを考えるなら、それはとても興味深いものだった。

「――前回お話した内容の復習は、皆さんお済みかと思います。今日の講義から新しい方が加わることですし、まずはその成果を見せていただきましょう。……セシリア・クインウェル?」

 ネア・ノエルが新しい方と言ってユイリの座っている方に視線を向けると、合わせて講義堂内の視線も動いてユイリは居心地悪く首をすくめた。
 視線そのものに含まれる様々な関心もそうだが、ネア・ノエルの瞳の奥に隠れた得体の知れないものは、ユイリを後ずさりさせるようなものを持っている。
 しかしユイリがその正体を手繰り寄せる前にネア・ノエルの視線は逸れ、セシリア・クインウェルと呼ばれた少女に皆の関心も移った。

 突然の指名にも関わらず、セシリアは動じることなく立ち上がった。
 ネア・ノエルに流れるような動作で膝を折ると、どこか挑発的とも取れる眼差しで講義堂内を見回す。
 ユイリに目を止めた時に、紫がかった青い瞳に値踏みするような色が浮かんで初めて、彼女こそがシェイラたちの話していた実行役員の少女だということに気がついた。

 セシリアは高慢に顎を上げるとユイリから視線を外し、よく通る声で話しだした。

「“世界の均衡を保つ詩”は女神の言葉とも呼ばれる神聖な言葉です。古の昔、暗黒の時代に女神が地上へと遣わされたラクリマが歌ったことが、世界に広まる発端になったと伝えられています。現存する詩は、神殿の管理下にある聖典とラクリマに口頭で伝わる伝承のみです。口にするだけで力を持ちアメシスが言葉に集うため、厳重に管理しなければいけません。紋様術もまた女神の言葉と同じ流れを組む言葉ですが、厳密には“世界の均衡を保つ詩”とは別個のものであると考えます。聖典と伝承が本来の効力を発するには強い精霊の加護を得ている必要がありますが、紋様術はある程度の加護を得ていれば紡ぐことのできる言葉だからです。ゆえに“世界の均衡を保つ詩”は、精霊を通じて女神から影響を受けるもの、紋様術で使われる言葉は、世界に散らばるアメシスから影響を受けるものと位置づけることができると思います」

 途中で噛むこともつまずくこともなく言い終えると、セシリアはユイリの方に目を向けて口元を挑発的な形に吊り上げた。

(……確かに嫌な女かもしれない)

 絶対に友達にはなりたくないタイプだと認識したところで、ネア・ノエルの淡々とした声が講義堂に響いた。

「お座りなさい、セシリア。――いつもながら模範的な概論です。しかしあえて言うならば、紋様術との比較についてもう少し詳細な解釈を入れた方が理解し易かったということでしょうか。例えば、わたくしたちが“世界の均衡を保つ詩”と呼ぶ言葉は声そのものに宿る音階、つまりそのほとんどが歌を拠り所としますが、紋様術に使われる言葉は力の発動形態がアメシスによるところが大きいということ。それゆえ“世界の均衡を保つ詩”は、直接精霊に語りかけることのできる音を持った者にしか紡ぐことはできないのです。そして紋様術ですが、力ある言葉はすでに確立されているものですので、後はアメシスの織り込まれた紋様さえあればそれぞれを連動させ効力を発揮させることは容易いことであると言えるでしょう」

 ユイリの視線は明後日の方を向いたまま、しばらくその辺を彷徨ってしまった。
 容易いことと言い切られてしまった紋様術だが、ユイリが言葉を唱えても何ら変化が現れなかったことは実証済みだ。
 ……才能がないということなのだろうか。
 だとしたら自分は、この学院で一番の落ちこぼれ候補なのかもしれない。

(っていうか、私は知識を仕入れに来たんだから、別に落ちこぼれでも構わないし!)

 目的は不思議な力を使うことではなく、元の世界へ帰ることなのだ。――たぶん。

 ユイリが悶々と考え込み一人どんよりとした空気を背負っている間にも、ネア・ノエルは教本をそらんじるように淡々とした語り口調で講義を進めていく。

「――では今回の講義からは、“世界の均衡を保つ詩”に焦点を絞って進めていきましょう。“世界の均衡を保つ詩”は、世界の中心を垣間見ることのできる神聖な言葉です。あなた方はここで、聖女の血筋に連なる者として世界の真髄を見、世界の中心へと近づくことになるでしょう」

 それまでずっと伏せていた銀色の睫毛を上げて、ネア・ノエルは講義堂をゆっくりと見回した。
 ユイリはネア・ノエルの瞳が、清らかな水を湛えた泉のように澄んだ色をしていることに気がついた。
 その深い色合いに魅入られていると、ネア・ノエルの視線が僅かにユイリのそれと絡んだ。
 ネア・ノエルが睫毛を伏せるとすぐに覆い隠されてしまったが、彼女の声音に恍惚とした調べが加わったことは聞き逃しようがなかった。

「あなた方は否が応でも、女神と世界の意思に近づくことになります。ラクリマとしての素質を認められた者は尚のこと、ここで学んだことの意義をいずれ知ることになるのです。だからこそわたくしは、まず最初に教え与える詩として、この言葉を贈りましょう。
”ティーレ メントゥ リーテ エレスティア ラル ヴェネティレーネ カーレ――
《貴重なる この時を与えたもうた 女神に 感謝の祈りを捧げん》”」

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