世界の果てで紡ぐ詩

38.

「なんか奥が深すぎて、ついていけない気がする……」

 全ての講義が終わってまずユイリが発した言葉は、あまりに悲壮なものだった。
 意気揚々とまではいかないまでも、現役で女子高生をやっていたのだからなんとかなるという考え自体が甘いものだったと、ようやく気がついた。
 まだこの世界の原理を良く知らないユイリを余所に、全てが曖昧なままに自明のものとして講義は進んでいく。
 部屋に戻ったら復習しておかないと、明日の講義からは夢の中で過ごす羽目になりそうだ。
 もちろんそんなことになれば学院に入った意味はなくなってしまうのだから、嫌でも参考書片手に教科書と顔を突き合わせるしかない。

「うぅ、帰ってから真面目に勉強するなんて高校受験の時以来だよ」
「? なんだか良く分からないけど、ずいぶん苦戦しているようだね」

 前に座っていたレイスが、身体だけ後ろに向けて人ごとのようにそう言った。
 
 机に突っ伏したまま恨みがましくレイスを見つめるユイリは、三々五々散らばっていく少女たちの視線を気にする余裕など残っていない。
 好奇心剥き出しの視線を一日中向けられていたのだから、今さらどんな目で見られようとどうにでもなれという投げやりな心境だった。
 それでも彼女たちが、遠巻きにユイリを眺めては仲間内で話に華を咲かせる以外余計なちょっかいをかけてこないだけ、まだましなのかもしれない。
 どうやらシェイラ、レイス、ミリセントの三人が牽制してくれているようで、ユイリは手を合わせて拝みたいくらいに感謝した。

「まったく、想像力が逞しすぎると言うのも考えものだわね」

 講義が終わってすぐに他の学院生たちから質問攻めにされていたミリセントが、ぼやきながら戻って来た。

「現実を見たら卒倒してしまうに違いないわ。そんなことになったら夏季祭の士気に関わるし、何より編入生になんの脅威もないと分かればセシリアたちを調子づかせるだけだから、しばらくお前にはおとなしくしていてもらわないと」

 ……親切の裏側にある意図が望んだものではないとしても、人間感謝の心を忘れてはいけない。

 同じく質問攻めにあっていたシェイラが話の輪に合流して、ユイリの葛藤を知る由もなくうきうきした面持ちで言った。

「今日一日、あなたの噂で持ちきりだわ! なんと言っても、あなたは有力な後ろ盾を持っているんですもの。もちろんわたくしは全ての噂を肯定したし、あなたがどんなに素晴らしい素質を持っているか触れまわっておいたから、きっと噂は今後も加速していくことでしょう」

 その言葉を聞いて、ユイリはうめき声をあげそうになった。
 ミリセントは大人しくしていろと言い、シェイラはさらに尾ひれをつけた噂を流してきたと言う。
 尾ひれどころか、背びれも胸びれもついているかもしれない。
 噂の真実を確かめようと少女たちに追いかけ回されている自分を想像してしまって、ユイリは恐怖のあまり震え上がった。
 少しずつ、ユイリの思い描いていた平穏な学院生活から遠ざかっていく。

 ユイリは、足元の床を踵でつついてみた。
 最初の時のように突然大きな穴が出現したら、今度は迷わず穴に飛び込むつもりで。

 レイスはそんなユイリを、同情の眼差しで見つめた。

「まぁ、あれだよね。撒き餌、とか」
「ま、撒き餌?」

 ユイリは素っ頓狂な声を上げた。

「撒き餌って、餌を撒くってことだよね? それが私ってことは……まさか私をダシにしようとしているってことじゃ……」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。わたくしたちはただ、これ以上実行役員が夏季祭を牛耳ることのないよう、お前に協力を頼んでいるだけ」
「……協力してなんて一言も言われていないような気がするんだけど」
「今言った」

 レイスは素っ気なく言いつつも、眉間にしわを寄せた。

「だけど、あまり良い考えではないような気が」
「そんなことないわ、アレイシア!」

 レイスの言葉を遮ったシェイラが、興奮気味に机を叩いた。

「夏季祭における聖劇、そして悲哀の聖女が持つ意味くらいアレイシアにだってわかるじゃない。ユイリはわたくしたちにとって、セシリアたちへの対抗手段なのよ。彼女たちがユイリに対して脅威を持ち、警戒していることは誰もが知っていることだわ。だってそのために、ユイリを獲得しようと動いていたんですもの。そしてそのユイリがわたくしたちと共にいれば、反実行役員の学院生たちも動き易くなるのよ!」
「……はぁ」

 困り果てたユイリは、シェイラの勢いに押されて身体を遠ざけようとした結果、あやうく椅子からずり落ちそうになってしまった。
 シェイラはなんとか体制を整えたユイリの手を握り、力を込めて握った。

「だからね、ユイリ。お願いだからわたくしたちに協力すると言ってちょうだい。これはあなたのためにもなることなのよ。この学院内で実行役員の力はまだまだ大きいし、わたくしたちならあなたを危険から遠ざけることだってできるもの」
「撒き餌にされている時点で、無理だと思うけど」
「馬鹿ねぇ、だったら尚更じゃない。わたくしたちにそっぽを向かれたら、お前は誰に頼ると言うの?」

 薄情なミリセントに指摘されて、ユイリは言葉を詰まらせた。

「まさか、このままで見捨てるって言うんじゃ……」
「例えばの話だけど、お前が協力してくれないんだったらそうなっても仕方がないわね。わたくしたちも暇じゃないんだし、お前に煩わされるなんてごめんだもの」
「そんなぁ」

 噂を撒くだけ撒いて、後はあっさりさようなら。
 もしそうなった時の未来予想図を頭に思い浮かべてみたら、胃袋がずんと重くなった。

「む、惨い……」

 すっかりしょげ返ってしまったユイリが力なく肩を落としていると、レイスが気の毒そうに慰めらしき言葉を口にした。
 とてもそんな風には聞こえなかったけれど。

「人間、諦めが肝心って言うし。少なくとも好奇心旺盛な子たちの群れに放り投げることはしないから、諦めた方がいいかもね」

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