世界の果てで紡ぐ詩

04.

 どれくらいそうしていただろうか。

 ぼんやり視線を彷徨わせたまま、だが瞳に映る全てのものを拒絶して物思いに耽っていた唯理は、不意に視線を感じて意識を戻した。

 視線を向けた先には、大きなバルコニー。
 ガラス越しにそこに立っていた人物と目が合ってしまい、唯理は声も出ないまま、大きく口を開けた。

 酸欠の金魚のように口をパクパクさせている唯理を余所に、その人物は人畜無害な笑顔を顔に張り付け、何かを言いながらドアの取っ手を指差している。
 鍵を開けろとかドアを開けろとか(たぶんその両方)そんなニュアンスのことを言っているのだと思うが、唯理としては当然ながら怪しい奴を部屋に入れる気はない。
 これ以上厄介事を増やして、どうしろと言うのだ。

 唯理は狐に睨まれた兎よろしく、ベッドの中で縮こまっていた。

 梃子でも動かない様子の唯理に業を煮やしたのか、謎の人物は大きく肩をすくめるとドアの取っ手に手を伸ばした。

 その瞬間、取っ手から手元までを走る青い閃光。

 本来人の目には見えないはずの静電気が走ったようにも、小さな雷がドアの取っ手に発生してそれが纏わりついているようにも見えた。

 唯理が驚いて目を瞬かせている間に、謎の人物は口の中で何かをつぶやくと今度はあっさりドアを開けて部屋の中に入ってきてしまった。

 今度こそ悲鳴を上げようとした唯理だが、何とも情けないことに肝心の声が出ない。

 目と口をOの字に開けたまま固まってしまった唯理に、謎の人物はしれっとした顔で呑気にも自己紹介をした。

「やあ、君がラティスの泉で溺れていたって子だね。僕の名前はクラウス。とりあえず初めましてと言っておこう」

 握手こそ求めてはこないが、口調はまさに友好的。
 このような場合、うら若き乙女の部屋に無断で侵入してきたことに抗議するべきか謎の人物――クラウスに倣って自己紹介するべきか迷うところだが、唯理は沈黙を選んだ。
 あまりにも、胡散臭すぎる。

 クラウスはそのことを別段気にするでもなく、緩やかな足取りで警戒したまま縮こまっている唯理に近づいて行くと、傍にあった椅子を引き寄せてベッドの近くに腰を下ろした。

 唯理は、辛うじて冷静さの残っていた部分でクラウスと名乗った男を観察することにした。

 年の頃は二十歳前後だろうか。唯理より年上な事は間違いないが、それほど離れてはいない。
 少し長めの薄茶色の髪と薄い金色の目が、どこか気位の高い猫を思わせた。
 人懐っこい笑顔を浮かべているが、あまり馴れ合いたくないような。
 彼の持つ雰囲気がそう思わせるのかもしれないけれど。
 ほんの少し、本当に僅かではあるが、クラウスの向ける視線に鳥肌が立つほどの恐怖を感じた。

「どうやら警戒させてしまったようだね。バルコニーからじゃなくてちゃんと正面のドアからお邪魔するべきだったかな。ところで、君はどうして服を着ていないんだい?」
「っ!」

 これで二回目だったので醜態をさらすことはなかったが、クラウスの視線に自分が裸であるということを強く意識して体に巻きつけている毛布を強く握りしめた。
 自分の存在を消し去ってしまいたいような、いたたまれない気分になる。

「ああ、君はラティスの泉で溺れていたんだっけ。愚問だったね。とは言え、まさかそのままの恰好でいるわけにはいかないだろう。何か着られそうなものはないかな……。――ふむ。これなんかどうだい? 少し大きいかもしれないけど、ちょっと着てごらん」

 ここはもしかして、客室のようなものなのだろうか。
 初めて部屋を見回す余裕が出てきた唯理は、自分の置かれている状況にようやく疑問を抱いた。
 部屋は決して広くはないが、客室のようだと思ったのは彫刻のある椅子とテーブル、木目調の美しいチェストが壁際に置かれ、さらに贅沢なレースが敷かれた化粧台まで置かれているからだった。
 部屋自体は唯理の自室よりも広いし、置かれているものも高価なのだろうということが見て取れる。
 少なくとも、唯理を含む大多数の人が思い浮かべるような牢屋の類でないのは確かだ。
 牢屋に放り込まれるのはもちろん嫌だが、不審者として扱われているのにこの待遇。
 矛盾しているのではないだろうか……。

 頓着もせず勝手にチェストを漁っていたクラウスは、引っ張り出した服を唯理に投げてよこした。
 クラウスは紳士的に後ろを向いてくれたし裸のまま知らない男と話すのは嫌だったので、ありがたく拝借することにする。

 素早く着込んだその服はちょうど太ももくらいの長さがあるシャツのようなもので、ようやく人心地ついたような気分になった。
 ほっと安心して、すっかり定位置と化したベッドの中へもそもそと戻る。

「あの。ありがとう、ございます」

 黙っているのも悪いと思ったので背中に向かってお礼を言うと、クラウスは振り返って改めて椅子に座り直した。

「どういたしまして。それで? まだ君の名前を聞いていないんだけど?」
「私は……」

 一見人当たりの良さそうなクラウスの雰囲気に呑まれて自己紹介しそうになったが、ふとそこで口をつぐむ。

 “名前は言霊。あんたが私に名前を明け渡した時点で、もう運命から逃れることはできない”

 それは、唯理をこのような状況に巻き込んだ少女が言っていた言葉ではなかったか。

「君の名前は?」
「私は……、その、唯理です」

 何も言わないわけにもいかず、かと言ってフルネームを名乗っていいかも判断がつかず、迷った挙句に名前だけ明かすことにした。

(これくらいだったら大丈夫だよね?)

「ユイリ、か。ずいぶん変わった名前だね。もっとも、この世界だからそう感じるのであって、君の世界では普通の名前なのかもしれないが」

 あっさり『君の世界』と言ってのけたことに驚いている様子の唯理を見て、クラウスは微かな嘲りを含んだ笑みを浮かべる。

「何をそんなに驚いている? 状況から見ても君の様子から見ても、それは明らかじゃないか。過去に例がなかったわけでもないしね」
「そ、それって! 私以外にもいるってことですか?」
「もう何十年も昔になるけどね。僕も伝承でしか知らないから、あまり期待しないでもらいたいな」

 帰れるかもしれないという希望は、あっさりと打ち砕かれた。

 しょんぼりと肩を落とした唯理に、クラウスは淡々と事実だけを述べる。

「彼らもその伝承を知っていたから、君を地下牢ではなくこの部屋に置くことにしたんだろう。しっかり施錠してあって見張りを立てられているとはいえ、ここは客室だからね。聖か魔か。時期も時期だし現れた場所も特殊だ。君が異世界から来た迷い人であれは相応の対応をしたいところだけど、もしかしたら人々に災いを成す魔かもしれない。彼らじゃ判断はつかないだろうね」
「私は別にそのどちらでもかまわない。ただ、元の世界へ帰りたいだけ。帰る方法はないんですか? 私を元の世界へ帰して」
「さぁ、どうだろうね。伝承の中ではそのことについては語られていないから」
「帰る方法も?」
「少なくとも、僕は知らない」

 まるでそんな事はどうでもいいと言うように。
 クラウスは薄く微笑んだ。

(もし仮に知っていたとしても、教えてくれる気などないのかもしれない)

 そう思わせるような、冷たい笑い方だった。

 急にこの場にいることが息苦しくなってベッドの中で居心地悪げに体を動かしていると、クラウスが立ち上がって唯理のすぐそばまで近づいてきた。
 そしておもむろにベッドに屈みこみ、唯理が避ける間もなく顎を掴まれ顔を上向かされてしまう。

 突然の出来事に、唯理は驚きのあまり固まってしまった。
 しかしそこには、甘い空気など微塵もない。
 クラウスは観察するように唯理の首元を見つめているだけで、心臓を高鳴らせている自分が馬鹿みたいな気がした。

「怪我をしているね」

 首元で温かな息遣いを感じ、唯理はびくりと肩を震わせた。

「これは刃物による傷かな。それほど深くはないが……痛むかい?」

 本当は思い切り首を縦に振りたいところを我慢して、僅かに否定の意味で首を振った。
 実際、首元の傷は少しぴりぴりとした痛みを伝えるだけで、それほど痛みは感じない。

 クラウスはしばらくの間無言で真新しい傷口を観察していたが、やがて躊躇うことなく指先をその場所に這わせた。

 ただ触れるようになぞっているだけなのに、まるでその場所を抉られたかのようにずきずきとした痛みが走り、唯理は思わず顔を歪ませる。

 唯理が抗議の声を上げる前に、クラウスはそっと傷口から指先を離した。
 途端に今までの痛みが嘘のように消え、唯理は震える息を吐いた。

「なるほどね」
「?」

 何事もなかったかのように椅子に座り直し、クラウスは顎に手をあてて楽しそうにつぶやく。

 それが何についてのなるほどなのか理解できずに首を傾げている唯理に、クラウスは自嘲するような笑みを浮かべた。

「いや、何でもないよ。ただ君にこの傷をつけた人物が誰かは分からないが、なかなか良い目の付けどころをしていると思ってね」
「目の付けどころって、それは――」
 
 どういう意味なのか、と聞こうとしたが、クラウスは唇に人差し指を当てて静かにするよう促し、唯理の疑問を封じ込めた。

 唯理は憮然とした思いで、おとなしく口を閉じる。
 
 いまいち掴みどころのない男だ。
 何を考えているか分からないのはもちろんのこと、彼に対する自分の反応もおかしい。
 もともと勘がいい方の部類に入る唯理は、クラウスに対して人当たりの良い胡散臭さを感じ取っていた。
 できるだけお近づきになりたくはないが、クラウスが先ほど口にした“伝承”について、もっと詳しく知りたいという思いがあるのもまた事実だ。

 ウェネラはしばらく帰れないと言っていたし、クラウスも帰る方法は知らないとしらを切っていたが、何か行動を起こさないではいられなかった。

(だって。もうすでに危険人物扱いされているみたいだし、このままこの訳の分からない世界にいても、いいことなんて何もないと思う)

 悶々と自分の考えの中に没頭していた唯理は、ドアの外から慌ただしい足音と声が聞こえてはっと我に返った。
 そしてその時点で、ようやくクラウスが静かにするよう言った理由を知った。
 誰かがこの部屋に入ってこようとしている。
 それが誰かはまだ分からないが、事態が好転するとは思えなかった。

 大きく見開いた瞳に怯えを滲ませたまま、クラウスをすがるように見つめる。

 クラウスは顔に楽しそうな色を浮かべ、口角を笑みの形に持ち上げた。

「せっかく身代わりを立てたのに、もうバレたか。ずいぶん勘の鋭い奴が混ざっているようだな」

 誰に聞かせるでもない、ただの独り言。
 唯理が聞き返そうと口を開くのと、ドアが荒々しく開けられたのは、ほぼ同時だった。

 反射的にベッドの中で体を縮こませ、唯理はただひたすらこの悪夢が早く覚めてくれることを祈っていた。

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