世界の果てで紡ぐ詩
50.
セシリアは、木製の扉の前で立ち止まった。
微かに震える手で髪を撫でつけ、瞳に決然とした光を宿して床面に描かれた紋様術に足を踏み入れる。
右手の中指にはめた指輪を取っ手部分にかざすと、扉はその重厚さには不釣り合いな程軽やかに開いた。
夜も更け光の乏しい礼拝堂内は、ひっそりと静まり返っている。
正面祭壇で慈愛の微笑みを浮かべる女神エレスティアを照らすように配された、丈高い枝状の燭台から洩れる光が、吹き込んだ空気に触れて揺らめいた。
「ネア――」
不安げにかすれた言葉にも反応することなく、その人物は頭垂れて手を組み合わせたまま一心に祈りを捧げている。
セシリアは深く息を吸い込んだ。
「ネア――、ネア・ノエル」
そこでようやく、ネア・ノエルは顔を上げた。
祈りを邪魔されたことに対する不快感もセシリアが現れたことに対する疑問も見当たらない表情で、ただ彼女が次に話す言葉を待っているようだった。
唇を噛みしめ落ち着かなくスカートを撫でつけていたセシリアは、僅かな沈黙の後思いきった様子で言葉を継いだ。
「ネアはわたくしに、祈雨の儀式を妨害するために聖劇を汚そうとしている者がいるとおっしゃいました。その事実は、今でも変わりありませんか?」
「……それは、わざわざ確認しなければならないことですか?」
静かな声音で逆に問いかけられて、セシリアは強くスカートの裾を握り締めた。
「ネアを疑うわけではないのです。ただわたくしには、どうしてもユイリ・サヴィアがそんなに大それたことをするとは思えなくて。ネアは、彼女を買いかぶりすぎですわ」
「それはわたくし達が判断することではありませんよ、セシリア」
たしなめるわけではない平坦な口調で、ネア・ノエルが言った。
「全ては女神エレスティアのご意思のままにあるのです。アデレイド女学院、そして各国女学院の聖劇で歌われる詩は、“世界の均衡を保つ詩”に近しいもの。歌い手によって、どれほどの効力を持つか分かりますか?」
「……素質ある者が歌えばアメシスが集い――精霊を通じて女神に影響を与えますわ」
「だからこそ聖劇で歌われる詩は、伝統的に詩学のネアから“悲哀の聖女”に選ばれた者へ口頭で教えられるのです」
それは、ラクリマからラクリマへと口頭でのみ伝えられる“世界の均衡を保つ詩”と、似ていて非なるもの。
その音階は複雑に絡み合い、女神の言葉を理解していてなお歌いこなすことは難しい。
ラクリマ候補として選ばれ、歴代の“悲哀の聖女”を演じてきた少女たちの中でも歌いこなせた者はほんの一握りと聞く。
しかしその音階を支配しアメシスを自在に操ることができれば、“世界の均衡を保つ詩”に近い威力を発するという。
――祈雨の儀式に影響を及ぼすほどに。
「聖劇、そして祈雨の儀式が重なれば、必ずこの国に何らかの影響を与えることになるでしょう。それがどんな形であれ、今回“悲哀の聖女”を演じるのはミレイネ・ライゼルなのですから」
ネア・ノエルの口からミレイネの名前が出たことで、セシリアの顔に隠しきれない緊張が浮かんだ。
セシリアは、精巧に作られた人形のようなネア・ノエルの顔を見つめた。
燭台から零れる橙色の灯りに照らされてなお、彼女の生彩に欠けた青白い顔は暗い沈黙の淵に沈んでいる。
生気の乏しい彼女から感情を読むことは、至難だった。
「ネアから見て――ミレイネは、“悲哀の聖女”に相応しいと思いますか?」
ネア・ノエルは、眉一つ動かすことなくセシリアの質問に答えた。
「相応しいと思ったからこそ、わたくしは彼女を推薦したのです」
「……そう、ですよね。愚問でしたわ。ただ……あの子の様子が最近おかしくて……わたくしに何も話してくれないし、それに――」
能面のように無表情なネア・ノエルに気押されたのか、セシリアは不自然に言葉を切って唇を噛みしめた。
言葉が続かないのは、セシリアの中で確固たる答えが思い浮かばないからだった。
もしかしたらという予感はあっても確信と呼べるものではないから、上手く言葉にすることができない。
だからセシリアは、ただ一言絞り出すような声で呟いた。
「お願いですから――ミレイネには手を出さないで」
ネア・ノエルに語るわけではない、悲痛な言葉。
答える者はいないはずだった。
何の感情の揺れも見せないままでいたネア・ノエルは、突然糸が切れた操り人形のように力なく顔を俯かせた。
しかし次にネア・ノエルが顔を上げた時、その唇は艶やかな笑みを刷いてセシリアを戦慄させた。
「不安なら目を離さなければ良い。すでに動き出した歯車を止めることはできずとも、足掻くことこそ人の性なのだから」
「――――ッ」
ネア・ノエルは青褪めたセシリアの前で元の無表情な彼女に戻ると、空虚な声で言葉を紡いだ。
「セシリア。消灯時間を過ぎていますよ、自室へ戻りなさい」
***
一連のやり取りを見ていた男の顔には、暗い愉悦が浮かんでいた。
疑念が確信へと変わったことで、彼が次に取るべき行動が決まった。
(ミレイネ・ライゼル)
言外に呟いた彼――クラウスの視線の先では、ネア・ノエルが静かに祈りを捧げている。
クラウスは漆黒のマントを翻すと、音もなく闇に溶け込んでいった。
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