世界の果てで紡ぐ詩

51.

 ユイリは寝ぼけまなこのまま身体を起こすと、大きなあくびを洩らしながら目を擦り――文字通り飛び起きた。
 引きつった顔で辺りを見渡すが、景色は目を覚ました時のまま。
 古典的に頬をつねってみると、ちゃんと痛みがあった。

「……どういうこと?」

 茫然と呟いたユイリは、無意識に握りしめていたらしい青草を地面から引き抜いてしげしげと観察した。
 ――もちろん、見紛うことなく本物の草である。
 恐る恐るお尻を上げると、真白い部屋着には朝露と緑色の染みが広がっていて、ココにどう説明しようかと余計なことを心配してしまった。
 すぐに、まずはこの事態をどう解決するかが先だと言うことに思い当ったが、当然良い案が浮かぶはずもない。
 事態を把握しきれていないユイリは、呆けたように座り込んでいた。

 しかしそうする間も、空は靄のかかった淡紅色から乳白色へと移ろっていく。
 やがて顔を出した太陽が牧草地に穏やかな朝の陽射しを投げかける頃になって、ユイリはこのまま座り込んでいても事態が好転することはないと悟った。

(あの性悪精霊……ッ!)

 牧草地を大股に歩きながら、心の中でウェネラに対する恨みごとを並べ立てた。

(人の夢に勝手に侵入しておいて、ポイとそのままにしておくってどういう了見なわけ?! っていうか、勝手に私のプライバシーにずかずか土足で踏み込まないでほしいんだけど! 何様だっつーの!! 大体、なんで私がっ)

「うぶぇっ!」

 前をよく見て歩いていなかったユイリは、見事に顔面からすっ転んだ。
 涙目で鼻を押さえながらしばらく呻き、痛みが引いてきたところでゆっくりと身体を起こす。
 ふと向けた視線の先には川が流れ、銀色の水は無数の鈴のような音を奏でていた。
 そして川辺には、二人の幼い少女の姿。

 人だ! と認識した後のユイリの行動は素早かった。
 痛みも忘れて勢い良く立ち上がると、まっしぐらに少女たちを目指して駆けだした。
 ひらひらしたスカートに邪魔されつつ少女たちの近くまで来ると、ユイリは半身を折って息苦しさに肩を上下させながら声をかけた。

「ねぇ、君たち――」
「――すごいわ!」

 甘い褐色の髪をお下げにした少女が、ユイリの問いかけを無視するように歓声をあげた。

 ユイリがすぐ側にいるというのに、少女たちは見向きもしない。
 その不自然さに、ユイリは伸ばしかけていた手を引っ込めて、顔をしかめた。

「ちょっと――」
「ねぇねぇ、もう一度歌ってみて! お願い! 誰にも言わないって約束するから。ねぇ、いいでしょう?」
「う、うん……」

 おどおどした雰囲気を纏った黒髪の少女が、色白の頬を赤く染めて頷いた。

「で、でもね、毎回ってわけじゃ……ないの。たまたまかも、しれない」
「それでもいいから! 歌ってみなきゃ分からないじゃない。ほら、早く」
「うん……。でも――できなかったら、ごめんね」

 不安な顔で先に謝っておいて、少女は深く息を吸い――静かに歌を奏でだした。

 歌声は、耳から身体の芯を抜けて朝日を浴びるように沁み渡っていく。
 まだ拙さの残る少女の歌声は、特に鼻に抜ける母音が切なく響いて、鳥たちのさえずりと絡まり合って甘い余韻を残した。
 細く、小さく――けれどその声は風のように自由に牧草地を駆け抜ける。

(すごい)

 幼い少女が歌っているとは思えないほど、心に響くその歌声が。

 すっかり聴き惚れていたユイリは、石に当たって跳ねあげられる水の音にふと我に返って目を瞬かせた。
 何が起きているか遅ればせながら理解すると、次いで驚きに目が丸くなる。
 投げかけられた陽射しは眩い金色のドームとなって優しく牧草地を覆い、普段は穏やかであろう水流は喜びを表すように銀の飛沫をあげて文字通りくるくると踊っていた。
 銀に輝く水、太陽を反射して時に色を変え、そよぐ風に当たって細かく砕けた水晶のようにきらめき落ちていく。
 幻想的な光景は、震えるほどの喜びと畏れを抱かせた。
 それは、神の領域に触れてしまったという畏怖に近いもの。

 少女が歌うことをやめ川が穏やかな流れを取り戻しても、ユイリは微動だにすることができなかった。
 それは褐色の髪をした少女も同様らしく、放心した顔で口を開けたまま固まっている。

 黒髪の少女の顔が、今にも泣きそうにくしゃりと歪んだ。

「やっぱり――変、だよね」

 口を閉じることを忘れたまま、褐色の髪の少女は緩慢な動作で首を横に振った。

「ううん。そんなことないけど、びっくりした。でも全然変じゃないよ。すごいね、こんなの初めて見たもの。川の水があんな風に踊るなんて、知らなかった! どうやったの?」
「ど、どうって。ただ普通に歌っただけ」
「歌っただけ?」

 黒髪の少女は不思議そうに呟いて、悪戯っぽく目を輝かせた。

「あのね、歌ってる時のレイネは聖女様みたいだったよ。聖女様もすごい力が使えるって言うもの、きっと今みたいなこともできるんだよね。ねぇ、レイネだったら、聖女様の学校に行けるかもしれない。そしたらね、二人で、えぇと、中央の……メセリアに行くの!」

(聖女? 学校? 中央の、メセリア?)

 その言葉たちから連想できるものを引き出して、ユイリは思わず無邪気に夢を語る少女の肩を掴んだ。

「ちょ、ちょっと! それってもしかして――」

 もしかして、ラクリマのことを話しているの?

 そう続けようとしたユイリの手は、しかし掴めるはずだった少女の肩をすり抜けた。
 驚きも冷めやらぬまま、またしても顔面から地面と挨拶することになってしまい、蛙が潰れたような声をあげる。

(うう……。今日はこんなのばっかり。夢なのに痛みがあるなんて、酷いよ)

 痛みをこらえて起き上がったユイリは、三角座りをしていじけたいのを堪えて恨めしげに自分の手を睨みつけた。
 陽にかざしてみても、特に透けている風ではない。

(夢だから、なの?)

 そうとしか考えられなかった。
 だからユイリは、少女たちに話しかけることは諦めておとなしく耳を傾けることにした。

「この川のずっと向こうに、水の神殿があるんだって。そこには聖女様の学校があるのよ」
「セシーは……そこに行くの?」

 セシーと呼ばれた褐色の髪の少女は、不安気に瞳を揺らす黒髪の少女――レイネをぎゅっと抱きしめた。

「もちろんレイネも一緒。だってレイネは聖女様になれるもの。わたしは聖女様の側にいて護ってあげるの。約束よ」
「じゃ、じゃあわたしは、セシーを護る!」

 急いで言ったレイネに、セシーは大きく破顔して頷いた――

 それは、幼い少女たちの約束。
 他愛もない口約束のように儚い、まじりけのない言葉の欠片。

 図らずもその場に立ち会うことになったユイリは、揺らぐ景色の中でただ黙然と、祈るように切ない無邪気な誓いを聞いていた。

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