世界の果てで紡ぐ詩
54.
「っ!」
セシリアは、鋭く息を飲んだ。
色白の頬からは更に血の気がひき、真っ青な瞳だけが心中を映して大きく見開かれている。
なぜ、という疑問が、そこに渦巻いていることは明らかだった。
ネア・ノエルと自分しか知り得ない会話を、なぜこの人は知っているのだろう。
しかしそう思う反面、彼女が“ネア・ノエル”と自らを指して、“本質は一緒”だと語ったことに答えが隠されているのだと、無意識に認識していた。
――そうでなければ、説明がつかないことが多すぎるのだから。
セシリアの葛藤を嘲笑うように、ネア・ノエルは尚も囁いた。
「これはあなたが言った言葉ですよ。覚えていますか?」
「……」
セシリアには答えることができなかった。
ただ苦しげに首を振ることだけが、精いっぱいだった。
セシリアに対して友好的な印象を持っていないユイリですら、その様子の悲痛さには胸をつかれる思いだった。
しかしユイリには、手出しする術を持たない。
また、なんと言ったら良いかも分からず、結局は傍観者で在り続けるしかなかった。
ネア・ノエルにとって、セシリアからの答えはさして重要なものではなかったのだろう。
セシリアが言葉を発することができないうちに、言を継いだ。
「だからわたくしは、“ネア・ノエル”の意思に反して、あなた方をこの場所へ連れて来たのです」
(“ネア・ノエル”の意思に反して……)
「あ、あなたは違う――。ネア・ノエルではありませんわ」
セシリアは尚も否定の言葉を口にのせ、ネア・ノエルはほんの一瞬、憐みのような光をその瞳に宿した。
「是と答えることも、否と答えることも容易い。結局のところ、わたくしたちは同じものなのだから」
「……それはラクリマとして、という意味ですか?」
「そう。でもこれ以上は教えられない。わたくしも“ネア・ノエル”もあなたもミレイネ・ライゼルも――そして後に来る大いなる変革も、全ては星読みの予言の一つ、壮大な叙事詩の始まりに過ぎないのだから」
(後に来る、大いなる変革――)
ユイリにはそれが、何だかとてつもなく嫌な響きを帯びているような気がしてならなかった。
大いなる変革が何を指すかは分からずとも、何かとんでもないことが起きようとしていることは分かるのだ。
それは水底に沈む国と呼ばれるウェレクリールを覆う変異でもあり、ユイリを呼び寄せる原因ともなったもの。
――水の精霊ウェネラの変調に始まる、何か。
多くは語らず、ただ“世界の均衡を保つ重要な役目”があるのだとユイリを呼び寄せた、その真意はどこにあるのか。
ここにきて初めて、ユイリは知りたいと切実に思った。
還る手段として。
そして、胸に蔓延る疑問の答えとして。
ネア・ノエルは、歌うように言葉を連ねた。
「覚えておきなさい。あなたはあの日あの場所で、過去よりも未来を選んだのだと言うことを。どのような意味を持つかは幼さ故にしらなかったとしても、確かに選んだのです」
「わ、わたくしは……」
言い淀むセシリアに、ネア・ノエルは甘く優しい毒を囁いた。
慈愛の微笑みを浮かべて。
「怯えることはない。わたくしもミレイネ・ライゼルが持ち得る素質は認めている。わたくしの興味が移るまで、彼女にはこのまま微温湯の如き夢を見ていてもらおう」
「……興味が、移れば?」
セシリアの恐怖が伝線したかのように、ユイリは震えた。
ネア・ノエルが近づいてくる衣擦れの音が、耳鳴りを伴って体の芯から凍りつかせる。
教壇から下りたネア・ノエルは、ユイリの横を通ってセシリアのすぐ側まで来ると、すっと腕を伸ばしてセシリアの頬に手の平を触れさせた。
びくっと身体を震わせるセシリアの耳元に朱色の唇を近付け、そして心底楽しそうに低く嗤った。
「あなたは、過去にくだした選択を悔いることになる」
***
ユイリが意識を保っていられたのは、そこまでだった。
空気が粘り気を増し、身体が重くなっていく。
目を開けていなくてはと思うのに瞼は少しずつ落ちて行き、意識も靄がかかって聞こえる音も意味を為さなくなった。
(また……、場面が変わっていく…………)
今度こそ、見知った光景が広がっていればいいのに。
薄れる意識の中で、ユイリは思った。
しかし見知った光景が何なのか、もはやユイリには考えることができなかった。
そして――
力を失った中指から銀色に輝く指輪が滑り落ちたことに、ユイリが気づくことはなかった。
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