世界の果てで紡ぐ詩

58.

 力なくベッドに横たわるミレイネを見つめる目は、冷たく醒めていた。
 しかしそれにも関わらず、ネア・ノエルの透けるように青い双眸からは、止めどなく涙が流れ続けていた。
 支配する精神の片隅、今にも消えてしまいそうなほど脆く残った“ネア・ノエル”の自我の一部が、哀しみに悲痛な声をあげている。
 彼女には、それが酷く煩わしかった。
 しかし瞼を伏せて自我を押さえこむと、直にそれも止んだ。

 流れた涙を拭おうともせず、ネア・ノエルはミレイネの青白い顔に手を伸ばす。
 否、伸ばそうとした手はその寸前で不意に動きを止めた。

「――――わたくしを、止めに来たのですか?」

 問いかけは、浮かび上がる闇へと向けられる。
 ランプから淡く広がる灯りすら届かない部屋の隅で、闇がくつくつと笑い蠢いた。

「幾つかの件では目を瞑ってもいいが、その中にも例外はあるからね」

 ネア・ノエルは、纏っていた闇を脱ぎ捨てて現れた男を見て、僅かに目を細めた。
 そこに驚きがないのは、予感めいたものを感じていたからなのか。

「……。あいかわらず読めない方ですね――クラウス」
「それはお互い様だろう。おとなしくウェレクリールでネアなんてやっていると思ったら、せっせと女神への貢物かい?」
「……“ネア・ノエル”は選出者です」

 それで全て説明がつくと言わんばかりの口調で、ネア・ノエルは言いきった。

 クラウスが、優雅な足取りでネア・ノエルに近づく。
 その間もベッドに横たわるミレイネに視線が向けられることはなく、意識は注意深くネア・ノエルと呼ばれる女性に注がれていた。

 触れれば届く距離まで近づくと、クラウスはネア・ノエルに手を伸ばした。
 石像のように白く精彩の欠片も感じられない涙濡れた頬に人差し指を触れさせ、そのまま胸の辺り――ちょうど心臓がある場所まで滑らせていく。

 身じろぎもせず冷然とクラウスの顔を見据えるネア・ノエルに、ようやくクラウスは言葉を返した。

「確かに“彼女”はそうかもしれない。だが“彼女”の中にいる君は? 神殿にいるはずのひとが、なぜ精神体だけとはいえここにいるのかな。あまつさえ、ラクリマとして一時は共に同じ神殿にいた女性の身体にいるとは、ね」

 それは、ネア・ノエルの中にいるであろう、もう一人の女性へと向けられた問いかけ。

 “彼女”のことを知る数少ない人間であるクラウスであれば、容易に気づくであろうと予想はしていた。
 ネア・ノエルの声は感情の揺れすらなく静かに、嘲りを含んで言葉を連ねた。

「……星読みの予言を知るのがあなただけだと、そう思っているのですか?」

 クラウスは、一瞬強く手をネア・ノエルの胸に押し当ててからゆっくりと離した。

「ユイリか」

 問いかけであって、そうではないもの。
 断定を含んだ声音に、ネア・ノエルはただ見る者を震撼させる冷たく凍った笑みを浮かべた。

「どうやら、忠告が無駄になってしまったようだね。僕は、「君が僕の邪魔をすれば容赦はしない」と言ったはずだ」
「わたくしを……手にかけるおつもりですか?」

 クラウスは、残酷な愉悦を浮かべた。

「“ネア・ノエル”に用はないからね」
「ならば、好きにするが良い」

 微動だにせず、見つめ合う。
 刻まれていく時間だけが流れていく中で、最初に言葉を発したのはクラウスだった。

「――と思ったけど、やめた。夏至祭が終わるまでは大っぴらに動けないし、レイがうるさそうだ」
「……」
「だから“聖女”様には、せいぜいおとなしくしていてもらいたいね」
「この娘をこのままにしておくおつもりですか? 生も死もない中途半端な状態にいれば、いずれ魂が消滅してしまうでしょう」
「それを僕が気にするとでも?」

 ミレイネに視線を向けることなく、クラウスは首を傾げた。
 将来ラクリマになり得る可能性を秘めていたとしても、彼には関係のないことだった。
 彼女は、重要ではない。

 すでに予測のついた答えであったためか、ネア・ノエルは微かな吐息を漏らしただけで他には何も言うことはなかった。

 だが、できることならこのまま紋様術を完成させたいという思いはある。
 異世界からの迷い人でありクラウスが目をかける娘を、絡め取るためにも。
 ネア・ノエルはラクリマとしての素質を持つ最適な器ではあるけれど、“彼女”の精神を受け止めるには限界が近づいている。
 ネア・ノエルという器が壊れる前に、新たな器を手にしておく必要があった。
 それが、異世界から迷いこんだ娘と繋がりがある人間なら、尚都合が良い。

 ネア・ノエルが未練を残した視線をミレイネに向けていると、クラウスが無造作な感じで言った。

「いいのかな、こんな場所にいて。この娘の異変に気付いた者が、直に駆けつけるかもしれないよ」
「まさか」

 あり得ないと続けようとした言葉は、クラウスに遮られた。

「力弱きものと侮れば、いつか足元をすくわれる」

 ただ人たる人間が、聖女の血筋を色濃く受け継ぎ、ラクリマの中でも至高の存在である自分に一体何ができるというのだろう。
 そう反論することもできたが、クラウスの目に浮かぶ表情を見て止めた。
 壊れかけた器に入ったままでクラウスを敵に回すには、あまりにも分が悪い。

 代わりにネア・ノエルは、感情を見せない声で風がそよぐように囁いた。

「――忠告に従い、今は立ち去りましょう」

 洗練された動作で流れるように礼をすると、静かに闇の中へと溶け込んでいった。
 扉の閉まる微かな物音だけが、ネア・ノエルが部屋から出て行ったことを知らせる唯一の音だった。

 後に残ったのは、繊細な花の残り香と死んだようにベッドに横たわる少女の姿。

 クラウスの視線が、ようやくミレイネに注がれる。
 その瞳に現れている感情は、憐みと――深い嘲り。

 青白い顔にかかる髪を払う手は優しく、向けられた言葉とは対照的な偽りに満ちていた。

「哀れな娘だ。甘言に惑わされ、誓約を結んでしまうとは」

 その言葉を残し、クラウスの姿もまた静寂の中に消えていった。

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