世界の果てで紡ぐ詩

59.

 今朝から、ユイリの気分は冴えなかった。
 むしろ悪いと言っても過言ではないくらい、胸の辺りがもやもやする。

 どうせ講義は聖劇の練習でほとんどが潰れるだろうし、聖劇の練習もセリフ一つないユイリにはあまり意味のないことのように思われた。

 この際休んでしまおうか。

 ユイリの中に住まう悪魔がそう唆していたが、ユイリが仮病を使う前に優秀な小間使いであるココが、今朝もてきぱきとユイリを送り出してしまった。
 あの元気のよい笑顔で世話を焼かれると、どういうわけだか嘘が途中でつっかえてしまうのである。

 そんなこんなで憂鬱な気持ちを抱え込んだユイリに、更なる不運な出来事が重なった。
 礼拝堂に着いていつものように手を翳したのだが、扉は開かず沈黙したままなのだ。
 あれ? と思い中指にはめたままになっているはずの指輪に視線を落とし、その理由が分かって呑気にもポンと手を叩いた。
 あると思っていたはずの指輪が、そこになかったのである。
 寝ている時外れたに違いないと、さして焦ることもなく納得しているユイリに遅れて、タイミングの良いことにレイスが現れた。
 朝の挨拶もそこそこに理由を話して、一緒に礼拝堂へと足を踏み入れる。
 そして敬虔とはほど遠いやる気のなさで朝の礼拝を終えると、シェイラたちと合流して朝食を取り、今は講義堂へと向かっていた。
 ちなみにユイリは、パンを三つと黄身がとろりとした目玉焼き、野菜のたっぷり入ったスープと極め付けに果物というボリュームたっぷりな朝食を平らげていたりする。
 これでは、今さら仮病を使っても信じてくれる人は誰もいないに違いない。

 しかし朝から旺盛な食欲を見せるユイリの傍らで、パンを細かく千切っているだけでほとんど口にしていなかったシェイラの顔色には、気づいていた。

 廊下を曲がり人通りが少ないことを確認したユイリは、シェイラの顔を覗き込んだ。

「シェイラ。何だか顔色が悪いみたいだけど、気分でも悪いの?」
「……本当だ。具合が悪いのなら、部屋で休んでいた方がいいよ」

 レイスは心配そうに顔をしかめ、同じようにシェイラの優れない顔色を見たミリセントが、驚きの声を上げた。

「シェイラったら、今にも倒れそうな顔色をしているじゃないの。無理をせず休みなさい。ネアには、上手く言い繕っておいてあげるから」

 普段のミリセントからすると、破格の言葉だった。
 それほどまでにシェイラの表情は翳り、肌は透けるような白さを通り越して真っ青と言えるものだった。
 いつもは優しい笑顔を浮かべている唇まで、微かに震えている。

 シェイラは伏せていた顔を上げた。
 目の下には、くっきりとした隈ができている。
 どこか苦しげに胸を押さえたシェイラは、心配そうに取り囲む三人の顔を順々に見つめた。

「……皆さんは、何も感じないの?」

 ユイリは、目を瞬いた。
 シェイラの言っていることがいまいち理解できなかったからだが、ミリセントにはぴんと来たようで片眉を上げた。

「てことは、体調が悪い原因は別にあるってことかしら? あの日――ではないものねぇ」
「もしかして、“何か”があったの?」

 シェイラは、緩慢な動作で頷いた。

「ええ。たぶんそうだと思うわ。今朝……ううん、昨夜遅くからずっとこんな感じなのですもの」

 三人が何の話しをし出したのか意味が分からないユイリは、クエスチョンマークを幾つも点滅させて首を捻っていた。
 一瞬、何か引っかかるものを感じたような気がするけれど。

 体調不良という話し――ではないような気がする。
 レイスの言動から、隠しきれない緊張めいたものを感じるのだ。
 もちろんシェイラへの心配もそこに含まれているとは思うが、何か他のものを懸念しているような。

 レイスとミリセントは、顔を見合わせた。

「何の情報も、まだ入って来てないよね?」
「学院内で起こるほとんどのことは掴んでいるはずだけど、今のところは何もないわね。だけど、セシリアなら何かを知っているかも」
「そう言えば彼女、今日は見かけてないな……」

 レイスが思いだしたように言うと、ミリセントは非友好的な表情を浮かべてそれに答えた。

「フン。いけすかない尊大でムカつく顔を見なくてすんで、わたくしとしてはとっても清々しているのだけれど。――でも、彼女たちがわたくしたちに先んじて情報を掴んでいる可能性は、十分にあり得ると思うわよ」

 嫌な顔をしつつも、しぶしぶその点だけは認める。
 なんと言っても実行役員である彼女には、ネアや下級生たち――ミリセントに言わせれば、セシリアに心酔している見る目の無いバカで間抜けな俗物らしい――からの情報源があるのだから。

 レイスとミリセントの話を黙って聞いていたシェイラは、か細い声で言った。

「わたくし、思うのだけれど――」
「ちょっと待った!」

 ここで遮るのもどうかとは思うが、まったく会話についていけないユイリは、遂に制止の声をあげた。

「もう少し、私にも分かるように説明してくれないかな。全然、さっぱり意味が分からないんだけど」

 ユイリに応えたのは、呆れた顔を隠そうともしないミリセントだった。

「全く。お前の耳は飾りものなの? 今の話を聞いていて流れが分からないだなんて、理解力に欠けているわ」
(いや、普通に理解できないし)

 苛々と舌打ちまでして煩わしさを露わにするミリセントとは対照的に、こんな時にも我が道を行くレイスは、訳知り顔に頷く。

「ユイリは、アデレイド女学院に編入してまだ間もないからね」
「アレイシアがどうしてユイリの肩を持つのか、わたくしにはそっちの方が理解できないわ」
「別に肩を持っているつもりはない。事実を言っているだけ」
「それが、肩を持っていると言うのよ」
「……えぇと…………」

 言い合いを始めてしまった二人に戸惑っていると、シェイラがユイリの肩に手をおいて問いかけるような眼差しを向けた。

「ユイリ。あなたは、本当に何も感じないのかしら?」

 問いかけられて、ユイリは思わず目を瞬いた。
 まさかシェイラが、自分にそんなことを聞いてくるとは思わなかったのだ。

「え。私? ……何かって言われても…………うーん」

 聞かれたので、とりあえず考えてみる。
 しかし、いくら考えてみても思い当たる節はない。

 ユイリは、申し訳なさそうに曖昧な笑みを浮かべた。

「特に、何も――」

 ユイリが最後まで言い終わるのを待たずにバカにしたような顔で口を挟んできたのは、レイスと睨み合いをしていたミリセントだった。

「嫌だわ、シェイラ。わたくしたちが感じ取れないアメシスの微細な揺れを、この鈍臭い子が感じ取れるとでも思って? 繊細さの欠片もありはしないと言うのに」
「確かに」
「――――少しくらい、フォローしてよ」

 げんなりとした面持ちで、ユイリは抗議した。
 意地悪なミリセントはともかくとして、レイスにまで同意をされてしまい、がっくりと肩を落としてしまう。

 私ってそんなに鈍臭いかなぁとユイリが落ち込んでいると、シェイラがひた向きな率直さで問いかけてきた。

「ねぇユイリ。今日は……セシリアを見かけた? わたくしたちは見かけていないのだけれど、あなたはどうかしら」
「ううん、見かけてないと思うけど」
「じゃあ、ミレイのことは?」

 ユイリは少しだけ考えて、やはり首を横に振った。

「――見てない」

 そう、とシェイラは頷いて言を継いだ。

「昨夜遅く、変な胸騒ぎがしたの。薄い膜がかかっているみたいにとても曖昧だったけど、アメシスが関係していることは確かだわ。“何か”がこの学院内で起きたのよ。ユイリには、このことが何を指し示しているか分かるかしら?」

 徐々に霧が晴れていくように、突然ユイリは先程感じた引っかかりの正体に気づいた。
 胸騒ぎというのではないけれど、ユイリは昨夜遅くから明け方近くにかけて不思議な夢を見たではないか。
 話の渦中にいる、セシリアとミレイネの過去とも言えるような、謎めいた――。

 そして見ていた夢が崩れていく瞬間、ユイリはその“夢”の中にいた。

「……まさか、あの夢――!」
「夢?」

 異口同音に、レイスとミリセントが声をあげた。
 その傍らで、シェイラはやっぱりと言う顔をしてユイリを凝視した。

「あなたは何かを知っているのね? 一連の出来事に関係する何かを、あなたは――」

 しかしここでまた、シェイラの話は遮られることになってしまった。

 廊下を忙しなく駆けてくる足音。
 その人物が角を曲がったところで、立ち話をしていた四人に気づいて足を止めた。
 そして何事かと意表をつかれている四人組――正確にはユイリに向かって、怒りに歪んだ顔で言葉を放ったのだ。

「こんな所に隠れていましたのね、ユイリ・サヴィア。ようやく見つけましたわ!」

 完全に激昂している少女は、先程の話題に上がったセシリア・ウィンスレットその人だった。

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