世界の果てで紡ぐ詩

60.

「セシリア……」

 無意識に呟いたユイリの声は、掠れて聞き取りにくいものだった。
 それは突然激昂して現れた少女に驚いたせいでもあるし、彼女を見た瞬間に鳴りだした警鐘のせいでもあった。
 怒りの矛先を向けられて狼狽している様子のユイリをちらりと見て、代わりにミリセントが甘い声で喉を鳴らした。

「あぁら、誰かと思ったらセシリアじゃないの。わたくしたちの立ち話にいきなり割り入ってくるなんて、随分とお行儀が悪いこと。お前が後生大事に守っている礼節とやらはどうしたのかしらねぇ?」

 嫌味を多大に織り交ぜた言葉を、セシリアに向ける。
 しかし常であれば怒り狂った反応を示すであろう彼女は、一瞬苛立ちの色を浮かべたもののユイリから目を離すことなく、ゆっくりとした足取りでユイリに近づいた。
 ユイリがセシリアのただならぬ様子に後ずさりすることも気にせず、ズイと右手を差し出す。

「ユイリ・サヴィア。あなたがお持ちの指輪、わたくしに見せていただけませんこと?」

 セシリアの言う指輪というのが、学院の紋章が入った小さな銀の指輪であることは疑いようがない。
 高位の紋様術師が創り出したという、学院内に幾つも点在する扉を開ける鍵となり得るもの。
 アデレイド女学院に通う者であれば、必ず所持していなければならない。

 ユイリは、思わず右手を背中に隠した。
 今まで一度たりとも外したことのなかった指輪は、右手の中指にはめられているはずであった。
 しかしどういうわけだか、今朝方からその指輪は見当たらない。
 気づいたのは礼拝堂の扉の前に立った時だったが、そのこととセシリアの言葉がどう連動しているのか分からなくて、ユイリは曖昧に言葉を濁した。

「えぇと……」

 言い淀むユイリに、セシリアの瞳に抑えられた怒りがひらめいた。

「――今日はお持ちではありませんの?」
「……」

 すでに分かりきったことを聞いている、そんな尋ね方だった。
 なぜだかは分からないが、セシリアはユイリの右手中指に指輪がないことを知っている。

 困惑気味のユイリに代わって、レイスが普段通りの表情でセシリアの問いに答えた。

「今日は指輪を忘れてきたんだよ。そうだよね、ユイリ」
「う、ん――」

 誤魔化しきれるものでもないし、ユイリは歯切れ悪く頷いた。

 セシリアは、右手を下ろして僅かに目を細めた。

「まぁ、そうでしたの。偶然にもわたくし、指輪を一つ拾いましたのよ。それをどこで拾ったのか、教えて差し上げましょうか」

 言うが早いが、突然セシリアは手を振り上げた。
 あまりに予想外の行動に、誰もが止める間もなかった。

 平手で殴られたとユイリが気づいたのは、衝撃が脳を刺激してようやく頬に痛みを伝えてからである。
 驚きで声も出ない様子のユイリに、セシリアは怒りでまだらに染まった顔で掴みかかった。

「ミレイネの部屋に落ちていたのよ! 言い訳できるものならしてみなさい、この卑怯者!!」
「――――ッ」

 再度手を振り上げたセシリアを止めたのは、最初に我に返ったミリセントだった。

「なっ……。いきなりどうしたって言うのよ! 気でも違ったの?!」
「あら、わたくしは冷静でしてよ。ええ、今までにないくらい、頭がすっきり冴え渡っていますとも」

 面白くもなさそうに、セシリアが笑う。
 ユイリがようやく掴みかかる腕から引き剥がされて茫然としていると、心配そうな顔つきでシェイラが駆け寄って来た。

「大丈夫、ユイリ?」

 そう言ってシェイラがユイリの頬に手を触れさせると、不思議なことに痛みが引いていく。
 ひんやりと滑らかな手が、熱を持った頬には気持ちが良い。
 少しずつ落ち着いてきたユイリは、覗きこんでくるシェイラに頷いた。

「うん……。大丈夫」

 生理的に零れた涙に目を瞬いているユイリを尻目に、幾分冷静に事の成り行きを見ていたレイスが口を開いた。

「いきなり殴りかかるなんて、君らしくないね。一体どうしたって言うの?」
「どうしたですって? 全部あなたのせいよ! なにもかも、あなたが編入してきてからおかしくなったんじゃない! あなたが編入してこなければ、こんなことにはならなかったのに!!」

 震える涙声で叫んだセシリアは、わっと泣き出した。
 緊張の糸が突然音を立てて切れたような、激しい感情の放出だった。
 セシリアを抑えつけていたミリセントが驚いて手を離すと、そのまま身体を折って泣きじゃくる。
 どうしたら良いか分からず立ちつくしていると、ユイリを抱きしめたままのシェイラが静かな声音で訊ねた。

「ミレイネに、何かあったのね? 彼女は――」

 セシリアは嗚咽を漏らしながらも、強い光を宿した目でシェイラを睨みつけた。

「白々しいことは言わないでちょうだい。偽善者ぶっているけれど、本当はあなたたちも知っているのでしょう? ――返して……ミレイネを返してっ」
「言っておくけど、わたくしたちだって何も知らないわよ。今からユイリを問い詰めてやろうとしていた所なのですもの」
「ミリセント!」

 ビクッと身体を揺らしたユイリを見て、シェイラが眉をしかめた。
 ミリセントは、特に反省した様子もなく肩をすくめる。

「だって本当のことじゃない。わたくしは何も知らないのに一方的に責められるなんて、腹立たしいったらないわ。この際だから、ユイリにはちゃんと説明してもらいたいわね」

 それはミリセントらしい言い分で、当惑するシェイラを一瞥したレイスもまた頷いた。

「まぁ、ミリセントの言うことにも一理あると思うけど」
「当然だわ」

 もっともらしく、ミリセントが相槌を打つ。

 ユイリの考えなど蚊帳の外に話は進んでいるが、ユイリ自身そうは見えなくとも十分にうろたえているのだから、口を挟む余裕などない。
 そして困惑しているのは、セシリアもまた同じだった。

「……何を、言っているのよ……」

 シェイラは、ため息を吐いた。
 どうしようかと考えあぐねている様子だったが、ふと周りを見回した彼女は大きく目を見張った。
 誰もいなかったはずの廊下には、いつの間にか幾人かの生徒がいて一連のやりとりを遠巻きに眺めている。
 普段は折り合わない四人が何やら揉めている様子が見て取れるからか、その目は好奇心で爛々と輝いていた。
 これ以上この場で話を進めれば、一時間もしない内に事細かなやり取りと多大なる脚色を含んだ憶測が学院内を席巻するに違いない。

 シェイラは、今さら遅いと思いながらも声をひそめた。

「とにかく、ここでは人目に付きすぎるわ。場所を移動しましょう。ユイリも、それでいいかしら?」

 その提案に、ユイリが逆らおうはずもなかった。

「――分かった」

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