世界の果てで紡ぐ詩

07.

 ユイリは、まるで牛追い棒につつかれた牛のように猛然と動きまわる少女を、安全なベッドの上から気味悪そうに眺めていた。

 ユイリの待遇が劇的に変化したのは、つい先ほどの事。

 ベッドに座りこんで忙しく頭をフル回転させていると、突然ドアをノックする音が響いて、ユイリが何か行動を起こす間もなく一人の少女が大きな籠を抱えて入ってきたのだ。
 そして、元気いっぱいにこう告げたのだった。

「初めまして。あたしはココ・エバンズって言います。今日から光栄にも、お嬢様のお側に上がらせていただくことになりました。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします!」

 その時の自分を鏡で見ていればきっと大笑いしたであろうまぬけな表情で、口を利く事も出来ずにユイリはその少女――ココの、嬉しそうな顔を茫然と見つめることしかできなかった。

 これは何かの罠なのだろうか。
 飴と鞭を使い分けて、懐柔する作戦?

 すっかり懐疑的になってしまったユイリには、ココがいきなりやって来て甲斐甲斐しく身の回りの世話を焼き始めたことに、疑いを抱かずにはいられなかった。

 しかしココはそんなことなど気にならないのか、はたまたユイリを完全無視しているだけなのか、小柄な体をめいっぱい動かして元気いっぱいに動きまわっている。

 小柄で華奢な体つきと、動くたびに背中でくるくる踊る赤い巻き毛が、どこかいたずら好きの妖精を連想させた。
 ……もっとも妖精なんて十六年間生きてきて一度もお目にかかったことはないけど、このファンタジーかぶれの世界には、何でも有りに違いない。

 間の悪いことにその瞬間ココが振り返り、ばちっと音が聞こえそうな勢いで目が合ってしまった。

 睨みつけるようにココを観察していた分、どうにも気まずい。
 しかしそう思ったのはユイリだけで、ココは唯理を上から下まで不躾なほど見つめると、決然とした顔つきでベッドに突進してきて、怯えてのけ反るユイリにはかまわずベッド脇に取り付けられた鈴――呼び鈴と言うらしい――を鳴らした。

 空気の層が揺れるような、なんとも小気味よい音が響き渡る。

 ユイリが今度は何が起きるのかと身構えていると、間もなくココと似たようなお仕着せを来た少女たちが数人がかりで、ブリキのバスタブを運んできた。
 そして嫌な予感に顔を引きつらせているユイリの前で、ココは何やらいい匂いのする小瓶や石鹸やタオル、そして部屋着らしきものを準備し、少女たちは働き者の蟻のようにせっせと水差しに入った熱い湯をバスタブに注ぎ込みはじめた。

 ここまでこれば、さすがのユイリも何の準備をしているのか気づくというものだ。

「湯あみの準備をしちゃいますので、少しお待ち下さいね」

 言われるまでもない。

 場違いなほど満面の笑顔を浮かべているココを、ユイリは恐怖にひきつった顔で見やった。

 お風呂はいい。
 温かい湯に浸かって、のんびり手足を伸ばしてくつろぐ時間は、至福の一時だから。
 意識のない間に水浴びをしていたせいか(クラウスに言わせれば溺れていた、だけど)、体中が何だか気持ち悪い。
 それをきれいさっぱり洗い流すことができれば、さぞ気持ちがいいだろう。

 しかしそれも、一人で入れれば、の話だ。

(でも。だったらどうして、部屋の中でお風呂の準備をしているわけ?)

 お風呂に入る時移動するのは人間の方であって、普通バスタブは移動しない。

 顔面蒼白になったユイリは、最上の脱出ルートを探すべくきょろきょろと部屋を見回し始めた。
 しかし入口付近はココが固めているし、ここは2階だから飛び降りるわけにはいかない。
 服装を考えれば、木をつたって下りると言うのも、論外だ。

 すっかり考えが行き詰って途方に暮れているユイリを追い詰めるように、ココの目がきらりと光った――ように見えた。

「さぁお嬢様、準備が整いましたよ」

 ココの一言に、ユイリは震えあがった。
 助けを求めて視線を彷徨わせると、ちょうど少女たちが自分の役目は終わったとばかりに部屋から出て行くところだった。
 無情な音を立てて、ドアが閉まる。

 泣きださんばかりのユイリには構わず、ココは何を思ったのかユイリが命綱のように体に巻きつけていたシーツを突然引っぺがした。

「っ!」
「大丈夫です。湯あみのお世話をしたことくらいありますので、ご心配はいりません。安心してお任せ下さい!」

 腕まくりをしながらグリーンの目をきらきら輝かせ、ココは恐ろしいことにユイリの着ているシャツに手を伸ばした。
 ユイリは、反射的にココの手首をつかんだ。

 部屋の片隅にどんと置かれたバスタブを横目でちらりと見ると、暖かそうな湯気が立ち上っている。
 いちおう仕切りらしきものはあるが、プライバシーを確保できるほどのものではない。
 
 嫌な予感が現実として迫って来て、胃がきりきりと痛みだした。

 ブリキのバスタブとココの満面の笑顔と自分のシャツのボタンにかけられた手を何度も見比べてみても、結論は変わらなかったし煙のように消えてなくなることもなかった。

 ユイリは、死に物狂いでココの手から逃れようと身をよじりながら叫んだ。

「ちょっ、いいです! 自分でできますから! お風呂くらい自分で入れますから、着替えだけ置いておいて下さい!」
「あら、そういうわけにはいきませんわ。あたしはお嬢様の小間使いですもの、お嬢様が快適に過ごせるようにしないと、あたしが叱られちゃいます」
「だけど……でも、お風呂くらい一人で入れます! 一人の方が、絶対に快適です!」
「それに、あたしは高貴な方のお世話をするのはこれが初めてなんです。一介の商人の娘がお嬢様のお側に上がれるなんて……。私、頑張りますね!」

 話がまったく通じていないようで、ココは陶然とした表情を浮かべてそう言い切り、ユイリにはどう考えても悪魔にしか見えない笑顔を浮かべた。

「だから、全てあたしにお任せ下さいませ」

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