白の影 黒の光

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35

「……わかりました」

 意外なほどあっさりとサリアは頷いた。思わず拍子抜けしてしまったほどだ。

「それで、いつ?」

 静かな彼女の声で、リオは我に返った。

「あ……ああ、準備ができたらすぐにでも……」

 リオの言葉に、サリアは再び頷いた。

「わかりました。お借りしたお部屋を片付けてきますので、少しだけ待っていてもらえますか?」

 リオが無言で頷くと、サリアは自室へと戻っていった。



 世界で起こっている出来事を確かめ、見極める。
 そう決めてから幾ばくか躊躇ったものの、リオはサリアにその意思を伏せて、元の世界に戻ることを伝えた。

 それに対する彼女の答えが、先程の一言だ。


 もっと、悲しい顔をするかと思っていた。

 しかし彼女の表情は変わることはなく、悲しみも絶望も怒りもなかった。


 普段とは違う環境に触れて、サリアの心情に変化があったのだろうか。


 リオは自分でも気づかないうちに詰めていた息をそっと吐き出した。
 サリアの様子に、どこか安心している。それと同時に、一抹の不安も覚えた。


 ひとの心は他人には分からない。
 伝えるために言葉があり、文字があるのだ。
 だが、リオはどうにも気持ちを言葉に変えることが苦手だった。それを伝えることも。


 だから、分かるのかもしれない。真実の心を伝えることができない人間が。

 ふと、思ってしまったのだ。

 サリアも、そうなのではないかと。


 共に過ごしたのは少しの間だが、穏やかで優しい娘であることはすぐにわかった。
 控え目で、他人への気配りが上手い。

 だからこそ、気を遣いすぎて自分の気持ちを伝えられなくなっているのではないだろうか。


 先程も、本当は帰りたくないのに、それを言い出せないでいるだけなのかもしれない。

 元の世界で恐ろしい出来事を体験したのだとすれば、この世界は彼女にとって救いだったに違いない。自ら戻ろうという理由などないのだ。


 だが、たとえそうであったとしても戻らないという選択はできない。「監視者」としての自分が、それを許さないのだ。
 その役目のために存在するのだから。


 今、世界は大きく動き出しているのだと思う。

 神々が世界を分けたのは太古の昔。

 ほとんどの人々が互いのもう一つの世界を忘れ去っている中で、「扉」を開いた少女の存在。


 なぜ彼女だったのか。
 なぜ「今」なのか。

 確かめなくてはならない。
 世界を、そして神の意思を。

 世界を渡るのは初めてのことだ。「扉」を自らの意思で開いたことすらない。
 不安はあるが、それ以上に決意したことがある。


 彼女を守らなくては。

 
「……『守る』?」


 ふと、リオは首を傾げた。
 なぜ、サリアを守らなくてはならないのだろうか。
 世界の均衡を保つ役目を持つ身として、何より優先させるべきは今現在の世界を知ること。

 しかし、それより先に少女の姿が思い浮かんだ。


 それは、辛い想いをした地に連れ帰る罪悪感があるからだ。
 そう己のなかで結論付ける。

 しかし、それだけではない感情があることも、朧気ながらに自覚していた。

 感情の名前は知らない。
 独りで生きてきた彼にとって、理解に苦しむものだ。


「……どうかしている」


 自嘲気味に呟いた。

 こんな感情はあってはならない。
 二つの世界から切り離されて生きている自分にとって必要のないものだ。


 だが、思ってしまった。


 サリアの心の真実を知りたい、と。
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