白の影 黒の光
39
光とともに、空間が変わったことに気付いた。
足には固い床の感触。森とは違う、ひんやりとした無機物の空気が肌をなでた。
手には金属の冷たさが戻っている。ゆるゆると握っていた手を開くと、銀細工の細い鍵がころん、と掌に転がっていた。
それを片手で器用に首から下げた細い鎖に繋げ、衣服の下に仕舞い込む。
普段は腰に下げていたが、今は彼の首に下がっている。紛失と盗難に備えた対策だった。
一連の行動を終えたリオは、ようやく今自分が立っている場所を把握するためにぐるりと部屋を一瞥した。
石造りの壁。
目の前には絹のカーテンが掛かっている。
不意に隣の気配が動いて、カーテンを華奢な指で引いた。
目の前に現れたのは小さな部屋。
真ん中にぽつんと祭壇だけが置かれた、簡素な空間だった。
明かりは微かに天井から漏れる光だけ。どうやら天窓があるようだ。
何となく興味を惹かれて、リオは足を踏み出した。 すると、隣の気配が慌てたように付いてきて、それから小さな声で彼を呼び止めた。
どうしたのかと振り返れば、真っ赤になったサリアの顔がある。
具合でも悪いのかと首を傾げると、彼女は更に小さな声で「……あの、手……」と自身の手を指差した。
ようやく手を繋いだままだった事実に気づいたリオは、一言彼女に謝罪の言葉を口にして手を離した。
温かなぬくもりが離れていく。
それと共に、リオの感情が微かに揺らいだ。
漠然とした言い様のない感情が沸き起こったのだ。
もう少し繋いでいたい。
何となくそう思った。
直後、彼は戸惑った。「何故?」と自らに問いかけ、手をじっと見つめる。
寒いのだろうか、と全く見当違いの方向に答えを持っていきつつ、自分を襲った新たな感情に首を捻った。
リオがぐるぐると考え込んでいる最中に天窓を見上げていたサリアが、ぽつりと呟いた。
「星……。そうか、夜なんだ。道理で……」
彼女の言葉にリオがどうしたのかと訊ねると、今が夜であり、神殿の人間がほとんど寝静まっていることが分かった。
いつまでもここにいるわけにはいかない。
この世界で起こっている事態を知るためには、まず様々に情報を集めなくてはならない。
今なら人目も少なく、誰にも見咎められずに外に出られるだろう。
そう判断してサリアに提案すると、彼女は少し躊躇った後にこくりと頷いた。
サリアの案内に従って、身を潜めつつ神殿の回廊を進み、リオとサリアは無事に街に下りた。
まだ夜明け前だ。
闇に包まれた街はどこを見ても人通りはほとんどないが、全くの皆無ではない。
身を隠しながらも、人の気配が近づけばその場所を離れる。
そんなことを繰り返しているうちに、うっすらと空が白み始めた。
サリアに案内されつつやって来たのは、街を一望できる高台だった。
促されつつ街に目を向けたリオは、息を飲んだ。
視界いっぱいに広がる石造りの街並みと、その隙間を縫うように掛かった真っ白な朝もや。
閉ざされた世界で過ごしてきたリオにとって、それは衝撃的な光景だった。
この世界はなんて美しいのだろうか。
リオは森と館での生活しか知らなかった。
そう、知識はあったが、知らなかったのだ。
世界がこんなに広いのだということを。
感慨深く街並みを眺めていたリオは、ふと視界の隅で昇りはじめた朝陽に反射してきらりと光るものに気付いた。
サリアは、静かに泣いていた。
恐らく無意識なのだろう。声も立てず、ただ、前を向いて。
不安気に揺れる瞳に、リオは衝動的に手を伸ばした。
街を眺めたまま、白い頬を伝う涙をその親指で優しく拭った。
少女がこちらを見上げてくる気配がする。
しばらくすると、彼女は再び街に視線を移した。
彼女を取り巻く空気は、凛として、けれどどこか優しい。
リオは朝もやが姿を消すまで、新たな世界を見つめていた。
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