世界の果てで紡ぐ詩

62.

 どうしたのか問おうとした言葉が口の中で詰まったのは、扉の開く微かな音が聞こえたからだった。
 二つの靴音を響かせて、近づいてくる。
 それほど広くはない室内、扉を開けて彼らが中に入ってきた時点で、お互いの存在には気づいているはずだった。
 思わず息を飲んだのは、ユイリだけではなく他の三人も同様だった。
 しかし入って来た二人の顔に驚きは見当たらず、僅かな表情の動きすらその落ち付き払った動作からは感じられない。

 それは、とても意外な組み合わせだった。
 虚をつかれて黙り込む四人に近づいてきたのは、ネア・ノエルと――レイフォード神官長だったのだから。

 まさしく絶句状態のユイリを冷めた目で一瞥して、ネア・ノエルが感情の欠落した声で囁くように問うた。

「このような所で、何をしているのですか」

 湖面にさざ波が立ったような、静かな声音。
 低い声に苛立ちは感じられなかったが、ユイリの肌が不気味な戦慄に粟立った。

 シェイラが、掠れた声で彼らの名を呟く。

「ネア・ノエル、レイフォード、神官長……」

 シェイラもまた、何か不穏な気配を感じているに違いなかった。
 もともと体調が悪く蒼白な顔をしていたシェイラは、今にも倒れてしまいそうに見える。
 椅子の上で身を縮めるシェイラの横では、セシリアもまた同じような表情を浮かべていた。

 ユイリは、立ちつくしたままレイを見つめた。
 どういうことだと、なぜネア・ノエルと一緒にいるのだと問いたかったが、言葉が出てこない。
 否、もし言葉が出たとしても、その問いを口に出すことは決してなかったに違いなかった。
 なぜならレイの端正な顔は、ユイリがこれまで見たことのないような無表情が張り付けられていたからだ。
 こんな顔、ユイリは今まで見たことがない。

 その変わり身に息を飲むユイリとすっかり傍観を決め込んで観察しているらしいレイスは当てにならないと判断したのか、ミリセントは肩をすくめ代表して答えた。

「ミレイネの具合が悪いと言うことで、お見舞いに来たのですわ」

 しれっとした顔で、ミリセントは事実の一部だけを話す。
 ほんの一瞬、レイの視線がユイリと絡んだような気がしたが、すぐにほどけてベッドに横たわるミレイネに留まる。

 そしてユイリの知るレイらしくもなく、ミレイネの言葉に反応を示すことなく目の前の光景に関心を移して首を傾げた。

「――彼女が?」
「はい。ミレイネ・ライゼルです」

 静かに、何の感慨もなくネア・ノエルが答えた。
 レイの表情が初めて動き、そこに痛ましそうな色が浮かぶ。

「なるほど、これは……」

 何か思い当る節があるのか、レイは眉間にしわを寄せた。

 ミリセントは何事かを考えこんでいるレイにはお構いなしに、苛立ちの浮かんだ顔で、しかしそんなことは微塵も感じさせない思いやり深い声で訊ねた。

「彼女に何が起きたと言うのですか? わたくしたち、大切な友達がとても心配なのです」

 そう言ってのけたミリセントに、ようやくレイは目を向けた。

「大事がないとは言い切れませんが、あなた方が案じることではありません」

 どこか冷たい声音。
 びっくりするユイリを無視して、レイは冷たく畳みかけた。

「彼女がこのような状態ということは、聖劇に出ることは難しそうですね。しかしだからと言って、中止するわけにはいかない。――特に今回は」
「もちろんです。悲哀の聖女は代役を立てますので、レイフォード神官長がご心配されることはございません」

 決められたセリフを言うように、ネア・ノエルの声には何の感情の起伏もなかった。
 しかしユイリには、セシリアの状態に無関心な冷たさがそこには宿っているような気がした。
 そしてそれはセシリアも感じたらしく、ここに来てようやく顔を上げてネア・ノエルを見つめた。

 驚愕と動揺。
 顔に様々な感情が過っていくセシリアの声もまた、同様の感情に震えている。

「代役? だけど、ネア・ノエル!」
「何か反論したいことでもおありですか? セシリア・ウィンスレット」
「……ッ」

 精彩に欠けた氷にも似た瞳を向けられて、セシリアは怯えたように口をつぐんだ。

 ネア・ノエルは銀の睫毛を伏せ、儚げに頭を垂れているシェイラに目を向けた。

「シェイラ・アシュトレイア」
「――はい」
「悲哀の聖女の代役は、あなたで務まると思います。お願いできますね?」

 有無を言わせぬ、絶対的意思を秘めた声音だった。
 ミリセントですら言葉を挟むことができずにいる中で、シェイラは蒼白になりながらも頷く。

「――――分かりました」

 次にネア・ノエルが向けた視線の先にいたのは、驚くことにユイリだった。
 相変わらず何の表情も読めない彫像のような生気に乏しい顔だったが、瞬きする僅かな間にひらめいたのは、ゾッとするほどの冷淡さ。

 息を飲むユイリに、ネア・ノエルは淡々と告げる。

「シェイラの抜けた穴は、あなたが埋めなさい。ユイリ・サヴィア」
「え?」
「ネア・ノエル!」

 レイスが、沈黙を破って反論の声を上げた。

「編入生であるユイリに、重要な役どころである星読みを任せるつもりですか?」

 もっともな言い分だった。
 ユイリにとっても、まさに寝耳に水。
 詩学の成績もそれほど芳しくない自分に、そんな役どころが回ってくるなど考えたこともないし、絶対にごめん被りたい。
 まさか名前を間違えたんじゃ……と思いネア・ノエルを見るが、彼女が冗談を言っているようにはとても見えなかった。

 ユイリの思いを代弁してくれたレイスに感謝していると、レイが口を開いた。

「ネア・ノエルではない。それは、私からの推薦です」

 ぎょっとしたユイリは、まじまじとレイの顔を見つめた。
 ユイリの知る優しい笑みを浮かべた穏やかさを探すが、今レイの顔に浮かんでいるのはどれもユイリの知らないものばかりだった。

 縋るような眼差しを向けるユイリには見向きもせず、レイは言を継いだ。

「彼女の才能を期待して、私は彼女のアデレイド女学院への編入を認めました。聖劇は、それを知る良い機会になるでしょう」

 このままいくと、とんとん拍子に話が進んでしまいそうだ。
 傍迷惑なことに神官長であるレイの推薦があれば、誰も反論などできはしないのだから。

 そうなっては困ると、ユイリは焦った。

「ま、待って下さい。私には無理です! そんな重要な役なんて。私は、何も知らないのに」
「分かっているのなら、知識を埋める努力をなさい。この場に留まることは、何の益にもなりませんよ」

 ネア・ノエルが、抑揚のない声で退出することを促した。

 何かを言おうと口を開きかけたユイリを制して、シェイラは立ち上がる。

「最後に、一つだけ教えてはいただけませんか?」

 シェイラは、レイとネア・ノエルを順々に見つめて、言を継ぐ。

「ミレイネは、どうして――?」

 答える様子のないレイに代わり、ネア・ノエルが答えた。

「彼女の清純なる魂は、女神に選ばれたのです。そう悲観することではありません」

 はっと顔を上げるセシリア。
 ネア・ノエルはそんなセシリアを一瞥して、薄く凍りついた笑みを浮かべ、告げた。

「これはラクリマに選ばれることと同等――もしくはそれ以上の栄誉ですよ」

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