世界の果てで紡ぐ詩

61.

 保健管理棟は、その性質と時間帯故かしんと静まり返っている。
 唯の一人とも出会うことなく一つの個室に入ると、そこに広がる水を打ったような静寂は、耳に痛いほどだった。
 白く無機質な室内、シミ一つない真白いカーテンがたなびく傍らで寝かされている、一人の少女。
 ただ眠っているだけのような安らぎを纏って横たわっているのは、ミレイネ・ライゼル――今季の聖劇で、“悲哀の聖女”として選ばれた少女だった。

 しかしなぜだろう、抜け殻のような空ろな寂寥を感じるのは。

「ミレイネ……」

 驚き目を見張るユイリの前に、セシリアは立ちふさがった。

「それ以上、近寄らないで!!」

 彼女の顔に現れた表情は、怒りよりもおぼろげな――そう、恐れに近い漠としたものだった。

「これ以上ミレイネに近づこうものなら、わたくしが容赦致しませんわ!」

 子を守る親猫のように毛を逆立てているセシリアに、ミリセントは呆れ返った声を出した。

「ミレイネったら。そんなに神経質になっていたのでは、話がちっとも進まないじゃない。ちょっとは落ち付いてもらわないと、困るわ」

 辟易したように言って、くるりと目を回す。
 目の前に横たわる状況がどうであれ、ミレイネのあてつけがましさは健在なのである。
 対照的に、優しい声音で椅子をすすめたのはシェイラだった。

「さぁ、セシリア。立っていないでお座りになって。今にも倒れてしまいそうだわ」

 一瞬迷いつつも、セシリアは素直に腰をかける。
 なにも言わずにもう一脚椅子を持ってきたレイスは、じろりとシェイラを見た。

「そして君も座った方が良い。さっきより顔色が悪くなっている」

 レイスの言うとおり、シェイラの顔は蒼白で疲れが滲んでいるように感じた。
 シェイラはため息を吐いて言われた通り腰をおろしたが、どこかホッとしたような感じだった。
 その様子を見届けた後で、レイスはセシリアに訊ねた。

「それで? こんな所にいるなんて余程のことみたいだけど、ミレイネは一体どうしたわけ?」
「……ユイリのせいよ」

 低く発せられた言葉。
 次いで睨みつけられたその目の暗さに、ユイリはその場から一目散に逃げ出したくなった。
 そうしない代わりに、慌てて否定の言葉を口に乗せる。

「違う! 私じゃない!!」
「だったらどうして、ミレイネの部屋にこれが落ちていたのかしら?」

 これ、と言って差し出したのは、鈍く銀色に輝く指輪。
 ずっと握りしめていたのだろう。
 それはセシリアの体温で微かに曇り、手の平には指輪の痕がくっきりと残っている。
 ちらりと見ただけでは分かるはずもなかったが、ユイリはそれが自分の落とした指輪であることを確信していた。
 無言のままのユイリに業を煮やしたのか、セシリアは吐き捨てるように言を継いだ。

「あなたは、ミレイネの部屋を訪れたことはなかったはずですわね? それなのにこれは、ミレイネの部屋に落ちていましたのよ。説明できるものなら、してごらんなさい。わたくしにも理解できる、合理的な説明をしていただきたいものだわ」
「それは――」
「説明なんてできませんわよね? だって、動かぬ証拠がここにあるのですもの」
「違う……。私じゃない。私はただ――」

 言いかけたが、はっとして口をつぐむ。
 その仕草が疑念を煽るものだとしても、ユイリにはどう説明したらいいのか分からなかった。
 しかし、一度口から飛び出した言葉を取り消すことはできない。
 とうとうユイリは観念して、続きの言葉をため息とともに吐き出した。

「私はただ、夢を見ていただけ」
「夢ですって?」

 まったく信用していないことは、セシリアの顔を見れば一目瞭然だった。
 レイスだけが、思案深く顎に手を当てて訊ねた。

「――どんな夢を見ていたの? それは、ミレイネに関すること?」
「たぶん」

 またしても歯切れ悪く、ユイリが答える。
 説明を求められているような重圧をひしひしと感じるのだが、戸惑いはユイリだって大きい。
 何が何だか分からないという点では、ユイリも同じなのだ。
 ただ――。
 ユイリは困惑の中で、認めた。
 昨夜見た夢と、ミレイネの部屋にユイリの指輪が落ちていたことは無関係ではないと思う。
 特に夢の終わり、目を覚ます寸前に見た光景。
 崩壊していく夢は、ユイリに恐怖感を与えるには十分すぎるほどの効果をもたらした。

 ウェネラには上手く誤魔化されてしまったけれど、あれは夢主の身に何らかの異変が起きたことを意味するのではないか。
 ウェネラの言動に注視しておくべきだったと後悔するが、それらは全て後の祭りである。

 ユイリは、眉をハの字にて困惑を露わにした。

「夢の内容は良く覚えていないんだけど……」

 嘘を吐くのは得意な方ではない。
 思わず視線を彷徨わせてしまったから、目が合ってしまったレイスにはお見通しだったに違いなく、ユイリは更にしどろもどろな口調になった。

「えぇと、たぶんミレイネに関する夢だったとは思うんだけど……途中でおかしな感じになって、目が覚めたって言うか。たぶん、夢が崩れていくみたいな感じだったのかも」
「要領を得ない話し方だわね。お前の言い方では、どんな夢を見ていたかも分からないじゃないの。それともまさか、夢の内容は忘れたなんて都合のいいことを言うんじゃないでしょうね?」

 渡りに船とばかりに、ユイリはミリセントの嫌味に飛びついた。

「夢の内容までは覚えてないけど、それは何も異常なことじゃないでしょ? ただ、途中で夢が崩れていったのは覚えてるけど」
「――夢渡り、だね」

 難しい表情で、レイスは呟いた。

「高位の神官や、聖女の血筋に連なる者が操ることのできる力だと思う。夢の深淵を探る方法は、世界の均衡を保つ詩の一節に記されているから。普通の人にはできないけど――強い精霊の加護を受けた人間なら、可能かも」
「嫌だわ。冗談言わないでよ、アレイシア。こんな何も感じられない子に、そんな芸当できるわけがないじゃない。ただの偶然じゃなくて?」
「でも偶然にしては、タイミングが良すぎると思うわ。だって、現にミレイネは――」

 シェイラは、途中で言葉を切った。
 横に座るセシリアの背が、堅く強張っている。

 その不自然さは、何か不吉なものが訪れる前触れのように感じた。

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