世界の果てで紡ぐ詩

18.

 ユイリは知る由もなかったが、彼女がいた場所は敷地内の一画にある居住用のスペースでしかなく、さらにその敷地というのも建物と言うよりは一つの街のようになっている広大なものだった。

 ウェレクリールの水の神殿は国を見下ろす小高い丘陵に連なり、国内のどの場所にいてもその壮大な白い建物群は人々の目を惹きつける。
 遠目から見ると、それらは眩い純白に彩られた大理石の壁が三つ横に並んでいるように見えるほどだった。
 しかし実際その優美さは、石畳の街道をさらに北上して、国内にあって聖地と市街地を明確に分離している針葉樹の森を抜け、見上げるほどまで近づいて初めて見て取ることができる。
 華美ではないが繊細さを失わない程度の装飾が彫りこまれた建物群は、国の粋を結集したもの。
 細部まで精緻な紋様が彫りこまれた白大理石の基部には、それ自体にアメシスが封じ込まれているという。
 紋様は同じものは一つとしてなく、複雑であればあるほど強い力を持つことで知られているが、この建物群はその極致と言えるものだった。

 広大な建物群の中央に位置する水の神殿と、その奥でひっそりと清らかな水を湛えるラティスの泉を守るための、巨大な防壁。
 そこには精霊に仕える神官長をはじめとした神官だけではなく、彼らに仕える者や、さらには国内においてラクリマ候補とそれに準ずる力を持つと認められた子女を教育する、神殿付属の学院までをも備えていた。
 当然、下界と隔離されているがために生じる不便を感じさせない程度の設備も揃っている。

 いわば神殿というよりも街のような作りになっているが、その特殊な構造故に何も知らないユイリからすれば、だだっ広い建物という認識しかない。
 それもそのはず、蔓草のような紋様が彫りこまれた鉄門と大理石の庭園を抜けて正面ポーチに入ってしまうと、各建物を繋げているのは優美な回廊のみなのだから。
 あとは建物内に僅か数か所中庭と呼べるものがあるだけで、唯一回廊のみが吹放しになっている。
 閉塞的な感は否めないが、驚くほど数多くの窓によって採光がしっかりと確保されているため、息苦しさや不便を感じることはなかった。

 ……少なくとも、建物から建物への移動距離に比べれば。

(と、遠い……)

 ユイリの息が上がっていたとしても、責められることではない。
 しかも今ユイリは、着慣れないドレスを着ているのだから尚更である。
 加えて言うなら、歩調を緩めてくれない案内人にも問題があった。

 聖騎士団第一騎士、ジェイ・コートランド。
 最初こそ鬱々考えながら後ろにくっついていただけだったが、息が上がるのに比例して空気までも重くなっていくことに、否が応でも気づかされた。
 昨日の記憶はまだ生々しく残っていて、苦手意識を抱かずにはいられない。
 沈黙を気まずいと思うことはほとんどないが、相手にもよるのだ。

 いきなりステップダンスをしだしたら、さすがに何かしらは言うだろうか。

 やけになってそんなことを考えてみたが、幸運にもそれを実行に移す前に目的地についたようだ。

 階段を上りきった最上階のさらに突き当たりに、その部屋はあった。

 ジェイが軽く扉を叩くと、返事の代わりに扉が重々しい音を立てて内側に開く。

(自動ドア?!)

 ユイリは文明の利器を見つけて一瞬目を輝かせたが、感動は長く続かなかった。
 扉の取手部分に円状の紋様が彫りこまれ、それが淡い光を発しているのを見れば、扉が電気などの動力ではなく得体のしれない力で開閉しているのは明らかだからだ。
 ユイリは、眩暈を覚えて額に手を当てた。

 気配でユイリが立ち止まったことに気づいたのだろう。
 立ち止まったジェイが、訝しげな顔で振り返った。

「何をしている。そのような場所で立ち止まらず、中へ入れ」
「あ、すみません」

 ユイリは反射的に謝って、慌てて室内に足を踏み入れた。

 そこは、執務室と呼ばれるにふさわしい居住まいの部屋だった。
 あくまでも機能性を重視しているらしい重厚な黒っぽいデスクには、年代とともに刻まれた傷が白くついている。
 正四角形の部屋は、一方の壁に青を基調とした美しい図柄のタペストリーが飾られ、もう一方には、背が高くどっしりとした書架が配置されていた。
 ちなみにタペストリーに描かれていた刺繍は、銀色の髪と金色の瞳を持った少女。
 穏やかな微笑みを浮かべ、泉のほとりで微睡んでいる。
 この場所とこの場所が祀るものを考えれば、思い浮かぶ人物(というか存在)は一人。
――ユイリは、そっと視線を外した。

「連れてまいりました」

 単調な声音で、ジェイが告げる。
 その音で、ユイリはジェイが声をかけた人物に視線を移し、僅かに瞠目した。

 ウェレクリールの水の神殿で最も高位にある神官の長。
 現実の彼が想像とはまるで違っていたことに、ユイリは驚きを隠せなかった。
 思い浮かべていたのは、もっと年配で恰幅が良い人物であり、間違えても窓の前に佇んでいる若者ではない。
 もっとも、服装だけは聖職者然としていたが。
 純白の長衣に身を包み、銀糸の紋様が複雑に織り込まれた肩掛けを纏っている姿は、ユイリの世界で聖職者と呼ばれる者のそれと似ているかもしれない。
 しかし首からかけているのは正十字の聖印ではなく、円形に緻密な紋様と文字で構成された魔法陣のようなもの。
 それを除けば、なるほど彼が神官長なのだと納得させる服装ではあった。

「観察はすみましたか?」

 笑みを含んだ声で言われて、ユイリはばつが悪そうに頬を染めた。
 ようやく視線を上に持っていくと、驚くほど整った顔立ちの若者がユイリを見つめていた。
 午前の柔らかな日差しが、若者の濃いブロンドの髪に混じる明るい琥珀色の筋を輝かせた。
 濃い色の睫毛に縁取られた瞳は澄み渡った海の色で、今はその瞳がユイリ一人に向けられている。
 神官長と呼ばれるには、彼はあまりに年若い。
 二十代後半から三十代前半といったところか。
 背の高さは平均くらいだが、どちらかというと細身な体つきをしているため実際よりも長身に見えた。

(なんていうお約束な展開……)

 美系の最高権力者など、世の女子高生が涎を垂らして喜びそうな展開ではないか。

 若者は好ましげな眼差しでユイリを見つめ、次いで影のように立っているジェイに視線を移した。

「ご苦労だった。後は大丈夫だから、勤めに戻りなさい」

 労いの言葉に、ジェイは軽く頭を下げた。

「かしこまりました。何かありましたら……」
「呼び鈴を鳴らすから、心配はいらない」
「はい」

 ジェイの視線が、脅すような険しさを持ってユイリに向けられた。
 何も問題を起こすんじゃないぞと言われているようで、ユイリは顔いっぱいに冷や汗を浮かべ必死に無害な小市民の顔を作った。

 ジェイが、静かな衣擦れの音を残して部屋から出ていく。
 図らずも二人きりで取り残されたユイリは、国でもっとも高位に在る若者の上品な美貌に圧倒されて、緊張のあまりぐっと唾を飲み込んだ。

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