世界の果てで紡ぐ詩

23.

 面白い娘だ。

 ソファの背もたれにゆったりと背中を預けるレイの顔には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
 常に職務に追われ果たすべき重責を負う身である彼は、普段であればいかに異世界からの迷い人といえど、自らが動くことはない。
 その信条を今回は例外として破ったばかりか、あの少女に対して並々ならぬ興味を抱いてしまった。
 ラクリマとしての予言を受けながら、紋様術すら扱えなかった非力な異世界の少女に。

「……今後が楽しみな分、残念ですね」
「その羽を手折ってしまうのが、かい?」

 突然聞こえてきた声が、その考えを嘲笑うかのように皮肉った。

 しかしレイは突然の声に驚くことも言い返すこともなく、代わりに穏やかな表情を保ったままタペストリーのある方に視線を投げ、ゆっくりと立ち上がった。

 タペストリーの前の空気が僅かに揺らいだ。
 それは命あるもののように波打ち、空間に亀裂が入る。
 亀裂からは漆黒の闇が現れ、それは徐々に姿を大きくしていき、しまいには人の背丈ほどの大きさにまで成長した。
 闇が割れる。
 そこから一人の男が出てきたことで、闇が男の着ていたマントだということが知れた。

 男――クラウスはうっとうしそうにマントを脱ぎ捨てると、陽の光の下にその全身を晒した。

 聖神官と呼ばれ至高の地位にいる彼が纏っているのは、上品だがシンプルな仕立ての服。
 クラウスの細身の体には良く似合っているが、彼がこのような服を好むのは、ただ単純に聖衣を毛嫌いしているからだということを、レイは良く知っていた。
 それほど、長い付き合いだからだ。

 そして彼が、一度こうと決めたらそれを翻すことがないことも知っている。

 レイは、クラウスに向かって優雅に一礼してみせた。

「盗み見の次は盗み聞きですか。しばらくお会いしない間にずいぶんと良い性格になられたようですね」
「僕に皮肉は通じないよ」

 涼しげな顔で言い返すと、クラウスはすすめられる前にソファに腰を下ろした。

 レイは一つ深いため息を吐くと、その場に立ったまま縦に長い窓へ視線を向けた。

 窓からはウェレクリールの町全てを眺望することができ、その景観は町を含む国そのものが湖の底に沈んでいるかのような錯覚を覚えさせる。
 霧状に国全体を覆う微細な粒は、それぞれがアメシスと呼ばれる元素の欠片で構成され、特にウェレクリール国内に散らばっているそれらは、水の力を多く宿していた。
 水のアメシスが持つ色彩は青。
 ウェレクリールが、水底みなそこに眠る国と比喩される所以ゆえんである。
 そして、精霊の加護を持つ者だけがそれを見て、真意を知ることができるのだ。

「彼女で間違いはないのですか?」

 レイの唐突な問いに対して、クラウスは喉の奥で低い笑い声を洩らした。

「同じことを僕も聞きたいね」
「……それは、確信がないということですか?」
「ああ。確信はない」

 きっぱりとしたその答えを聞き、レイはクラウスに視線を戻して静かに嘆息した。

「それなのに私を動かすのですね。これでも忙しい身なのですが」
「知っているよ。ウェレクリールの変異については、中央聖議会でも審議されているから」
「……あなたがそれを言いますか」
「僕だから言えるんだよ、レイ」
「あまり私を巻き込まないでいただきたいのですが」
「それこそ君が言える台詞ではないだろう。ウェレクリールの神官達、いや世界中がなぜと思っている疑問の答えを、君も知っているはずなのだから」

 三年前クラウスがウェレクリールに――レイの元に訪れ、近い将来現れるであろうラクリマの予言と、彼の持つ深い闇を語った時から。

 レイは、そっと目を伏せた。

「彼女は、聖印すら現れていないのです」
「だから?」

 クラウスは、薄く笑った。
 普段は用心深く笑顔の裏に隠している、酷薄さを隠さぬままで。

「印はつけた。聖印は現れずとも、今はそれで十分だろう」
「もし」
「僕が仮定の話を嫌っていることは知っているだろう、レイ。君はただ僕の言うとおりに動いてくれればいい」

 冷やかなクラウスの言葉に、レイはただ静かに吐息を洩らした。

「彼女をアデレイド女学院に送るのも、その一環なのですね」
「もちろん。知識を身につけてもらわないと困るし、何よりアメシスの満ちている環境に置けば、彼女が精霊の加護を持っているか否か判断がつきやすくなるからね」
「……彼女がただの迷い人だったら?」
「まるでそうだと良いと思っているように聞こえるよ」
「いけませんか?」

 一見穏やかに聞こえるレイの口調の中に挑発に似た響きを見つけて、クラウスは口角を持ち上げただけの偽善じみた笑みを浮かべた。

「レイ。僕はその問いに答えないといけないのかな?」

 穏やかな言葉に冷やかさとそれより微かな怒りを含ませて、クラウスはレイを見据えたまま目を細めた。
 口が過ぎるぞと言外にたしなめられていることを感じて、レイの顔が僅かに青ざめる。
 
 クラウスは、ふと顔の表情を緩めた。

「君の忠誠には感謝している。レイの協力があるからこそ、僕が動きやすいことは事実だから」
「……はい」
「だけどね、勘違いはしないことだ。――君と僕は対等ではない。誰が主か、もう一度良く考えてみることだね」
「申し訳ありません」

 瞬間的に湧きあがった恐怖心を抑え込み、レイは深々と頭を下げた。

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