世界の果てで紡ぐ詩

29.

 やっとの思いでユイリが部屋にたどり着いた頃には、すっかり陽も落ちかかっていた。
 小高い丘陵に連なる建物群の奥まった場所に学生寮があるため、内部からは町の明かりどころか下界の様子すら見下ろすことはできない。
 今までいた部屋よりもさらに外界から切り離された建物に迷いこんでしまった気分で、ユイリは豪華な部屋に囚われた虜囚のような気分に落ち込んだ。
 学生寮が、手入れの行き届いた美しい中庭に面していることが唯一の救いであると言えば救いである。
 ユイリは、窓際に椅子を引きずってきて出窓越しに空を見上げ頬杖をつくと、大きくて深く長すぎる息を吐き出した。

「お疲れでございますか、お嬢様」

 ココが気遣わしげに差し出したカップを受け取って、ユイリはぐびっと中の紅茶を飲みほした。

 ジェイに連れられて院長の元に引き立てられたユイリは、笑顔など浮かべたこともないような厳めしい目に鋭く観察されているのを痛いほどに感じた。
 アデレイド女学院で編入生を受け入れることは稀な上にレイフォード神官長からの推薦状があるなどついぞ知らないまま、ただ冷や汗を流しながら縮こまること小一時間。
 学院の説明や心得など、ユイリが通っていた高校にあった校訓より厳格な決まりごとを前に、なんとかなるという呑気な気分が跡形もなく瓦解していく音を聞いてしまったユイリであった。
 その間ジェイと言えば、神妙な面持ちで話を聞くふりをしながらも視線で入口との距離を測り逃げ出すタイミングを図っているようだった。
 しかし院長の方針では保護者――この場合、身元引受人であるジェイがこれにあたるらしい――にも説明を聞く義務があり、ユイリを送り届けたらすぐに退散しようという目論見を打ち砕かれたことは、ジェイにとって不幸であるかもしれない。
 結局ジェイが失礼にならない程度の素早さで部屋を辞すことができたのは、院長が「では、学院内を案内しましょう」と立ち上がった時だった。
 薄情な“保護者”に取り残されたユイリは、そこからさらに学院内を引き回され先ほどようやく解放されたばかりなのだから、体力的というよりも精神的な疲れにぐったりしてしまうのも無理からぬ話なのである。

「ココー、私無理かもしれない」

 ユイリは紅茶のお代りを断りながら、泣きごとを口にした。

「私が知っている学校とは全然違くて、途中で挫折しそうなんだけど」
「まだ学院生活も始まらないうちに、そのようなことは言わないで下さいませ。お嬢様は編入生で神官長様が直々にお会いになられた方であることはお噂になっておりますが、それ以外はご心配なさるほどではありませんわ」
「……それ以外って?」
「え?」

 あからさまな懐疑心を向けられたココは、目に見えて困り切った顔をしている。
 一生懸命考えこんでいる姿を見て、ユイリはさらなる不信感に目を細めた。

「ないんだ」
「いいえ! ちょっと待って下さい……そうだわ、授業などはどうでしょう?」

 ユイリは、机の上に積み上げられている教科書に目を向けて首を横に振った。

「数学と音楽は何とかなるかもしれないけど、国史に古典はちょっとねぇ。礼法は……うぅ、考えただけで拒否反応が出てきたよ」

 ユイリは、こしこしと服の上から腕をこすって身震いをした。

 ココは眉間にしわを寄せて、他に何かしらあるはずだと真剣に考え込んでいる。
 そこまでしてもなかなか見当たらないのかと、ユイリはちょっとだけ泣きそうな気分になった。

「もういいよ、ココ」
「そうだわ!」

 諦めきったユイリの声と、嬉しそうなココの声が見事に被った。
 パチンと両手を合わせてキラキラ眼でユイリの方へ身を乗り出したココが、にっこり微笑んだ。

「授業についてのご心配はなさらなくても、それ自体縮小される可能性が高いのですわ」
「どうして?」
「だって夏季祭が間近に迫っておりますもの。聖劇の準備などで大忙しになりますわ、きっと」
「へぇ、そうなんだ。一大イベントなんだね」

 感心してそう言ったユイリに、ココはたしなめるような視線を向けた。

「何を言っているのですか。アルストゥラーレの女学院でも、夏季祭で演じられる聖劇ほど、心躍るものはございませんでしょ? ウェレクリールでもそれは同じなのです。あたしも一度だけ見たことがありますが、それはもう素晴らしいものでした」
「一度って、お祭りに参加しなかったの?」
「当然、参加いたしましたわ。五つの国で定められた祝祭日で女神をお祀りする大切な日を祝わない者はおりません。特に夏至の当日に演じられる聖劇は、各町や村では伝統的なものですから」

 うっとりした口調はそのままに、ココはさらに熱を込めた口調で言った。

「でも各国の女学院で演じられる聖劇は特別なのです! なんと言っても、学院内の一部を一般に開放して、学院生が演じる聖劇を見ることができるんですもの。その素晴らしさと言ったらもう……。たった一度だけでしたが、あたしの出身地で演じる聖劇とは全く違くて、とても感動した覚えがあります」
「そ、そうだったんだ」
「はい。しかも今回はお嬢様の小間使いとして学院内に立ち入ることを許されて、しかも夏季祭も間近。ああ、なんて素晴らしいんでしょう」

 目を輝かせて言うココに度肝を抜かれたまま、ユイリは若干引き気味な笑顔を浮かべた。

 最初は学院生活の不安をココに訴えていたはずなのに、一体どこから聖劇についてココの熱弁を聞くことになったのだろう。
 いまいち釈然としないものを感じたが、夏季祭とそこで演じられる聖劇のおかげで授業が縮小されるというのはいいことだ。
 なんだか分からないけど、肩の荷が少しだけ軽くなったような気がする。
 それに。

(伝承は聖劇を見たほうが分かりやすいってクラウスが言っていたし、同じ日に祈雨の儀式があるってことはジェイが言っていたんだよね)

 ジェイではないが、ユイリもそこに人為的なものが感じられてならなかった。
 そう、例えばクラウスが裏で手を引いていると言っても驚かないほどに。

「夏季祭があるんだったら、学院生活もそんなに悪くはないのかも」

 考えた末にそう結論付けたユイリに、ココは勢い込んで何度も頷いた。

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