世界の果てで紡ぐ詩

03.

 ふんわりと鼻孔をくすぐる太陽の香りが、唯理を少しずつ覚醒させていった。
 直接肌に触れる感触は、干したての布団の温もり。
 さわさわと顔の上を風が流れるのは、窓を開けたまま眠ってしまったからなのか。

(何だか、変な夢見ちゃった……)

 唯理は目を閉じたまま、安堵の息をつく。

 差出人のない封書、中に入っていた楽譜、歌を口ずさんだら突然真っ白な世界に放り込まれたこと。
 そして、ウェネラと名乗る自称水の精霊――。

「目が覚めたか」

 冷やかな男の声が聞こえた。

 思わず、全身の筋肉が強張る。
 ここが本当に自分の部屋の自分のベッドの中であれば、絶対に聞こえるはずのない男の声。
 ぴしっと音が聞こえそうなほど固まってしまった唯理は、必死に夢の世界へ逃げ込もうとしたがそれも叶わず、観念してしぶしぶ目を開けた。

 目に飛び込んできたのは、やはり見たことのない男の顔。
 じっくり観察するよりもまず、その眼光の鋭さと、御影石の彫刻にも似て柔らかさの感じられない雰囲気に怯んだ。

(夢の続きを見ていると信じたい……けど)

 わが身の不運を嘆きながら、そして非情にもこんな状況に放り込んだウェネラを心の中で罵倒しながら、唯理はただ男の視線を受け止めることしかできなかった。

「言葉が理解できぬわけではないだろう。お前は何者だ」

 尋問されている時に、横たわったままというのは心もとなく何となく肩身が狭い。
 相手の様子を窺いながらゆっくりと身を起こそうとした唯理は、次の瞬間喉元に冷たい金属を感じ、両肘で上半身を支えたままの不安定な姿勢で動きを止めた。

 冷たい熱の正体を知って、喉の奥から風が抜けるような変な音が漏れる。
 男が突き付けた細身の短剣は、唯理の喉元を浅く傷つけていた。

「もう一度問う。お前は何者で、何の目的があってこの国に現れた。魔の類か」

(唾を飲んだだけで喉を掻っ切られそうなこの状況で、どうやって説明しろと?)

 小心者らしく心の中で反論してみるも、まさか口に出せるはずもなく。
 というか、心とは裏腹に体はかなりのショックを受けているらしく、口を開いても言葉ではなく浅く荒い息が漏れるばかり。

 本当だったらできるだけ詳しく状況を聞いて解決策を一緒に考えてほしいところだが、どうやら男は唯理を黒と決めかかっているらしい。

 まるで親の仇を見るような目で睨みつけられても知らないものは知らないし、何があったのかは分からないけど、今一番困っているのは自分の方じゃないかと、唯理は思う。

 それが何だか悲しくて、ようやく脳になだれ込んできた現実はどう考えても不安しか与えてくれなくて、唯理は男を見つめたまま涙を一粒二粒こぼした。

 そんな唯理の(無意識の)泣き落とし作戦が功を奏したのか、男はいまだ冷たさを宿したままの瞳を僅かに細め、短剣を鞘にしまった。

 だが一度流れた涙はそう簡単に止まってくれるはずもなく、唯理はぐすぐすと鼻をすすりながら嗚咽を漏らし続けた。

 唯理の涙にたいして心を動かされることもなかったのだろう。
 男はただ冷やかにその様子を眺めながら、一向に泣きやまない唯理にいい加減うんざりした様子で一言爆弾を投じた。

「まずはその貧弱な体を隠したらどうだ」

 唯理はえっ、と涙を溢れさせたままの瞳を下に向けて、今度は声にならない悲鳴を上げて布団に潜り込んだ。

 こっそり布団の中で自分が何も身にまとっていないことを確認して理解したのは、今まで上半身裸のまま大泣きしていたということ。
 その事実に、今度はいたたまれない思いで涙が出そうになる。

(っていうか、なんで裸なわけ?!)

 無言のまま一人悶絶する唯理をよそに、男はじっと何かを考え込む風情である。

 一通り赤くなったり青くなったりを繰り返した唯理は、次第に無言のままの男が気になりだした。

(さっきは人のことを尋問して挙句に怪我までさせて、今度は何も言わないつもり……?)

「お前はなぜ、あのような場所から現れた」

 突然発せられた声に唯理は驚いて肩を震わせたが、今度の声の響きはただ不思議そうな音を宿しているだけだった。

 小動物が持つ野生の勘で危険はないらしいと判断した唯理は、それでも警戒しながら顔だけ布団から覗かせ男を見つめる。

 声の調子からどうせ冷酷な顔立ちの男だろうと想像していた唯理は、じっくり男を観察して少しだけ残念な気持ちになった。

 二十代半ばから後半位だろうか。
 鼻梁が通り切れ長で底のない闇色の目と、肩まで届く長い黒髪が印象的な面立ちは、もし唯理が学校の友達と町を歩いている時であれば大騒ぎする位には整っていた。
 
(なのにこんなに性格が冷たいなんて)

 じいっと男を見つめる唯理と、黙って答えを待っている男。

 ようやく現実に立ち戻って、唯理は大きく息を吸った。

「わ、私も状況がいまいち理解できていないんだと、思います」
「どういうことだ?」

 唯理は必死に頭の中を整理しようとしたが、こんがらがった糸は一向に解けず、かえって糸は複雑に絡まりあって答えは見えなくなってしまった。

「まず、私がどこにいたのか教えていただけませんか? ……その、よろしければ」

 鋭い眼光で射抜かれて、小さな声で最後に付け加える。

 男はしばらく無言で何かを考えている風だったが、やがて一言口にした。

「ラティスの泉だ」
「ラティスの、泉?」
「知らぬのか」

 まるで、それが信じられないとでもいうような視線と声音。
 唯理は心の底から湧きあがってくる名前の知らない感情を無理やり抑え込み、ぎゅっと手を握りしめた。

「し、知らない。そんな名前の泉なんて、聞いたことがない。ここは一体どこなんですか? 日本じゃないんですか?」
「……本当に知らぬのか、それとも知らぬ風を装っているだけなのか。もし知らぬ風を装っているのなら、たいした演技力だ」
「え、演技じゃありません! 私は本当に何も知らないもの」
「それを判断するのは私ではない。私はただ、お前が良からぬことを仕出かさぬよう見張っているだけだからな」
「そんな」

 悲しいという気持ちよりも茫然とした気持ちの方が強いまま、唯理は俯いた。

 どうしたら信じてもらえる?
 楽譜に書いてあった曲を歌ったら真っ白な世界にいたことを話す?
 ウェネラのことを話す?

 状況を考えれば、正直にすべて話した方が得策なようにも思えた。
 しかし、何かがそれを押しとどめた。

(勘だけど……あまり話しちゃいけない気がする)

 俯いたまま考えを巡らせていると、男が離れていく気配と遠ざかる衣擦れの音が聞こえた。
 唯理が顔を上げても男は振り返る様子を見せず、そのまま大きなバルコニーに面したガラスの前で立ち止まる。
 しばらく、何かを探すようにそして何かを確認するかのように佇んでいた男は、やがて外を見つめたまま、口を開いた。

「ここはウェレクリールという。水の加護を受け水の神殿を頂く国。どんな田舎者でも、知らぬ者はいるまい」
「ウェレ、クリール……」
「本来であればウェレクリールが水に飢えることはない。なぜなら他のどの国よりも、水の力が強いからだ。だが数年前から力が弱まる傾向を見せ始め、今年になって雨が一滴も降らなくなった。どういう状況か分かるか」

 そこでようやく男が唯理の方を見た。
 急に何を話し出したのか分からずにぽかんとしていた唯理は、慌てて口元を引き締める。
 そしてその言葉の裏に潜んでいるのが純粋な質問だと感じ取り、少しだけ肩の力を抜いた。

 先ほどのぴりぴりした空気が薄れたことに勇気づけられ、言葉を繋ぐ。

「日照り、ですか?」
「そうだ。水の加護が薄まり、日照りがこの国を狂わせ始めている。世界の均衡が崩れ始めつつあると言う者もいるな。そこで神官達が考えたのが、祈雨きうの儀式、つまり雨乞いによる力の回復だ」
「雨乞い……」

 そんな非科学的なもの、現代の日本では聞いたことがない。
 少なくとも、唯理の周りでは。

(なんだか……現実感を伴う夢を見ているみたい)

「祈雨の儀式は、最も水の加護が深く恩恵を受けている場所で行われる。それがラティスの泉だ。お前は、その泉の底ない深みから現れた」
「……泉の……底、から――?」
「そうだ。ラティスの泉は神殿の敷地内に位置し、何人たりとも立ち入ることは許されない。まして祈雨の儀式の前ともなれば、尚更のこと。魔かそれとも」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 私がそのなんとかの泉の”中”から出てきたって――それは一体、どういう事?」

 男は愕然としている唯理を醒めた目で一瞥すると、尚も変わらない平坦な声で答えた。

「番をしていたのは神官の一人。私はその者から受けた報告以外、状況を知らない」
「でも、だって――。”あの時”私は変な場所にいて、話してたら突然穴が開いて……気づいたらこの部屋にいて。それなのに、泉の”中”から出てきた? ……何よそれ。意味が分からない」
「私にも分からぬ。だからこそ、知りたいのだ。お前が何者で、どのような目的を持っているのか――そして何より、今お前が語った言葉の真意を」

 驚きのあまり何も考えずに口にしてしまった言葉の糸口を、男はしっかりと掴んで唯理に詰め寄った。

 そもそもの元凶は、間違いなく(本人の言葉を信じるなら)水の精霊ウェネラ。
 この人も水がどうのとか言ってたし、ウェネラがどこかで関係しているのは明らかだ。

 いっそのこと、全てを話してしまおうか。

 そう思い口を開くも、言葉が出てこない。

 無言のまま、ぴりぴりとした時間だけが過ぎていく。

 男が一歩ずつベッドに近づいてきて、唯理がもう耐えられないと目を閉じたその時、扉を叩く音が緊迫した空気の合間を縫って聞こえた。

 男は一瞬口元を歪め、唯理はほっと胸を撫で下ろした。

 男がベッドから離れていくと、息苦しさが少しおさまったような気がした。

「どうした」

 扉は開けないまま、男が外の人物に問いかける。

「は。中央から聖神官殿が視察に来られましたので、ご報告を」
「中央メセリアからだと? ――このタイミングで、か。分かった、すぐに行く」

 男は考え込む様子を見せながらも、唯理から視線を外しドアへ向かって行った。

(た、助かった?)

 臆病な兎がそうするように、唯理は安全な巣穴であるベッドの中で布団を体に巻きつけたまま、用心深く男の様子を窺う。
 その視線を感じたかのように、男は振り返った。

「少し席を外すが、逃げようとは思わぬ事だ。部屋の外に見張りを置いておく。妙なまねをすれば容赦はしない」
「……」

 ドアノブに手をかけたまま、男が忠告する。
 唯理は引きつった顔のまま、何度も頷いた。

 男はその様子を見て特に何を言うでもなく、無言のまま部屋から出て行った。

 残された唯理は、もそもそと布団からはい出てきてとりあえず安堵の息をつく。
 僅かに開いたままの小窓から風が流れ、空気に触れたせいか喉元の傷がピリッとした痛みを思い出させた。

 これは夢なんかじゃない。
 夢ではありえない。

 圧迫感から解放された唯理は、傷口に手を触れたままただ茫然と風に髪を遊ばせていた。

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