世界の果てで紡ぐ詩
41.
闇を紡いだ帳が落ちる回廊を、女は音もなく滑るように歩いていた。
柱廊の間から差し込むのは、淡く頼りない月の光。
星々が生み出す光すら届かない闇の中で、息づくものは月の光と女が手にした紙燭の光以外なにもなく、完全な静寂が辺りを満たしていた。
見る者がいれば、それの奇異なることに気付いたかもしれない。
女の歩調に合わせて移動する紙燭の光は一定に保たれ、聞こえるはずの足音も、衣擦れの音でさえも闇を前に沈黙しているのだから。
女はまるで、そこに存在していないかのように密やかな雰囲気を纏っている。
ふと、女の歩みが止まった。
それに合わせて、手にした紙燭の赤みを帯びた炎が風に揺らめく。
不思議そうにと言うにはあまりに乏しい表情で、女は目の前に広がる闇に紙燭を向けた。
そのまま数秒間微動だにせず待っていると、石畳の床を叩く靴音が聞こえ、次いで闇の中から一人の若者が姿を現した。
控えめに銀糸を縫い取った漆黒の上着を緩く着こなし、薄い笑みを顔に張り付けた姿には、どこか不吉な気配すら漂う。
だが女は、能面のように無表情を保ったまま、静かに若者を見つめ返していた。
「逢瀬には、ぴったりの夜だと思わないかい?」
嘲弄する言葉が、若者の口から洩れた。
それが誰に対するものか興味はひかれず、代わりに女は頭巾の中でさらに顔を俯けた。
女の仕草は控えめで慎ましく受け取れるが、瞳に浮かぶ光を気取られぬためであることは、明らかだ。
若者は瞳に冷たさを宿したままで、口角を僅かにあげた。
「どうやら僕のことは、すでに知っているようだね」
「――はい」
女は静かな声で肯定した。
「アメシスが……騒いでおりましたから」
「へぇ。できるだけおとなしくしていたつもりだけど、なかなか上手くはいかないな」
「……大いなる力が動き、水の力を封じていた紋様術に微かな亀裂が入りました。同時に、そこから水の力が漏れだしてこの国を満たす気配も。気づいたのは、わたくしだけとは限りません」
「だが、それを面と向かって言う者はいない」
「あなたの持つ聖神官という御位の前では、言葉は意味無きものと成り果てましょう。例えそれが真実だとしても」
若者――クラウスの顔に、解けない氷にも似た表情が浮かんだ。
ひんやりとした冷気に沈む石作りの柱廊に、さらなる冷気が垂れこめる。
しかし女は、動じることもそれ以上の言葉を重ねることもなく、青白く生気の薄い面を伏せて佇んでいた。
クラウスが女のすぐ近くで立ち止まり、布越しにその耳元でそっと囁いた時ですら、静謐を纏っていた。
「面白いことを言うね、ネア」
クラウスが女の立場を口にしても、彼女の態度は揺らがない。
手にした紙燭の炎が、クラウスのもたらした風で形を歪に変えただけだった。
「まるで、全てを知っているかのように聞こえるよ」
クラウスは目を細めた。
「君は何者だい?」
その静かな問いに、ネア・ノエルはゆっくりと顔を上げ、初めてクラウスのそれと視線を交わらせた。
そして、静かな声音で告げる。
「……聖神官様が気にかけるほどの者ではございません」
「そうかな? 僕はこうして――」
クラウスは、ネア・ノエルの顔を隠すように流れ落ちる布に手を滑らせた。
微細な抵抗すら手の平に感じることなく、布を後ろに払い落す。
隠され、緩く纏められていた色彩の薄い髪が背中を流れ落ちる様を見つめながら、クラウスはネア・ノエルの頼りない細腕を引いて抱き寄せた。
手にした紙燭が、驚きを露わに危うく揺れる。
「君の存在を忘れられそうにないと言うのに」
「お戯れを……」
引き寄せられるように一つになり同じ影を踏みながらも、ネア・ノエルは形ばかりの抵抗を口にした。
感情の欠落した瞳でクラウスを見上げ尚も口を開こうとした彼女は、しかし静かに重ねられたクラウスの唇に吐息を奪われ、言葉にならない喘ぎ声を洩らすことしかできなかった。
傍目からは恋人同士の密事のようなその仕草の間も、クラウスは目を閉じることなく冷淡な眼差しを腕の中の女性に注ぎ続けた。
「君は、何者だい?」
甘い行為とは対照的な冷たい言葉で、再度問う。
ネア・ノエルが鋭い眼差しに思わず目を伏せると、生理的に浮かんだ涙が一粒零れ落ちた。
「なぜ――」
白い磁器のような頬を濡らした涙を親指の腹で拭ってやって、クラウスは言葉を引き継いだ。
「そこまで君を気にかけるのか、かい?」
「……はい」
「確かに、常であれば一介のネアなど歯牙にもかけないだろう。でも君は、僕と封印の紋様術を結びつけた女だからね、警戒して当たり前だろう? それにね、僕は君と同じ気配を持つ女を知っているんだ。偶然か必然か、今ここで詮議するつもりはないけど、君たちに邪魔をされては困るからね」
「もしわたくしが、あなたにとって邪魔なものだったら?」
クラウスは、屈託のない笑顔を浮かべた。
ネア・ノエルの唇に吐息だけを触れさせて、蠱惑的な毒を囁く。
「災いは、芽のうちに摘み取らないといけないだろうね」
「……」
ネア・ノエルを抱く腕に力を込めて、クラウスは喉の奥でくつくつと笑う。
「だけど差し当たりは、君には僕の相手をしてもらおうかな」
絡め取られた体を振りほどこうとはせずに、低く垂れこめた暗雲が月の光を遮る闇の中で、ネア・ノエルはただ糸のねじれた操り人形のように小さく頷いたのだった。
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